水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

私の多摩川〜向かう前に思い出す篇〜

改めて考えるたびに、いつも新鮮に驚いてしまうのだが、

時が進んでいる、動いている、流れている——まあ、なんでもいいけど、「止まっていない」ことはまこと驚嘆すべきことだと思う。アナログ時計の針が進もうと、ディジタル時計の文字盤が点滅しようと、カレンダーを1枚めくろうと、それらとは無関係に、いつでも。それは時計以前に、この身体がよく識っている。

現在、理由あって結構な痛みを感じているのだが、痛みも、時間が作ってくれる産物なのだと思うと、ありがたいなあと(どうにか)思える。快楽や退屈や悲しみやきびだんごは言うまでもなく。誰が言ったか忘れちまったが(ゲーテだったか、ジッドだったか)、「時間は全てに勝利する」。あ〃、いつか時間そのものになってみたい。そして果てなき川をいつまでもどこまでも下っていきたい。下りながら森羅万象を経験する。「人」という舟には限界ありすぎ。まるで今生における限定性とか限界性を知るために生まれてきたみたいだ。しかし「人」として、流れる時間を日々感じられるだけでも人やっている甲斐があるってものだ……そう思って毎日をどうにかこうにか生きてこう。さっき、常人らしくふとそう思ったのだった。

 

閑話休題。やっぱり時間と水は「流れている」という物言いが1番しっくりくるな。

ミニサイクルに乗って多摩川に赴き、川沿いを東(あるいは西)に向かって走っている時、その流れを最高に感じた。想像よりもゆっくり流れる川と、ときに生ぬるかったり、ときに冷たかったりする外気と、鈍い音で回り続けるオイルの足りないタイヤチェーンが完璧なトリオを奏でてくれた。

 

多摩川にしょっちゅう赴いていたのは、今から7、8年くらい前のことだ。

暗く、静かな川沿いにおいて、せわしなかったり、麻痺状態にある心を、ほぼ瞑想っぽい気分に導いてくれた多摩川。あの三位一体的「しん。」とした心持ちは、名曲喫茶でも、押し入れの中でも、睡眠中でも得られない。川でなければけっして得られない心的状態があるようだ。圧倒的インドア派の自分にとっては悔しいことだが、認めなきゃならない。海も湖も(ついでに山も)自転車で行ける範囲にないけれど、多摩川だけは片道30分で行ける場所に住んでいることに感謝し、今のうちにもっと詣でるべきだろう。 

そういうわけで、この数日、多摩川のことをよく考えている。でも、考えているだけでは(もちろん)行けない。ずいぶん行ってないので、多摩川に対して、なんだか気後れしてしまっている自分を感じる。最後に行った時は精神的コンディションが宜しくなくて、着くやいなや、上の空気分で川のほとりをぶらぶらした後、逃げるようにそそくさとあとにしたのだった。あの時は、川の精(なるもの)に監視されているような気がしてならなかったっけ……。

 

午後11時頃の、夜気で少し冷えた多摩川の空気に思いを凝らす。すると初夏の晩になると決まって訪れる或る感情が、自販機で買った缶ジュースのように「ごとん。」と自分の内に落ちてくるのが判る。暗い墓場、湿った芝生、灰色の煙を上げる工場を思い出す。長くて急な日野橋(自転車のペダルを踏まなくても勝手に進む)と、スターバックスにしてはいささかうらぶれたスターバックスのことも。近日中に、久しぶりに赴いてみます。何かしら変わっているかもしれない。変わっていないかもしれない。(「私の多摩川〜久しぶりに行ってみた篇〜」に続きます!)