水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

元気出ない時の君って、どうしてるの?

こんにちは。久方ぶりのうえに唐突ですみません。

男も女も、老兵も若兵も、演奏家も聴衆も、キリギリスもアリもカマキリも、ショベルナイトもニセモノ勇者も商人も、文豪も漫画家も小説家も、思想家も哲学家も過激派も、市井の人も革命家も引きこもりも活動派も、旧訳派も新訳派も、ブランショ派もバタイユ派もモーリス・ルブラン派も、ドン・ファンもカルロス・カスタネダもグルジェフも、スタバ人もドトール人もタリーズ人も、恋と愛の違いについて論ずる人も、案ずるより生むが易しな人も、ユウジョウボウヤスシもフチカミヤスシも駅伝走者も、フェリーニもフェディリーニもスパゲッティーニも、花も夢も嵐も、さよならだけが人生さも、いついつだってこんにちはちゃんも。ロマン派も脱構築派も。瞬間も永遠も現在も。

 

……キリないので、いったん切ります。とにかく、色んな人やら虫やらものやら、「際立っている」存在たちが、

はあ、元気出ないや……。

そんな時ってきっと、いやしょっちゅうあるはず。(ありますよね?)

そんな時、その来し方も存在と同じくらいのヴァリエーションがあるはずです。(ありますよね?)

 

たとえば。

座禅を組んで瞑想する者もいれば、弦楽器を掲げる者もいれば、バットを構える者もいれば、紙とペンを握る者もいれば、スタジアムまで足を運ぶ者もいれば、居酒屋に友を呼び出す者もいれば、映画館に足を運ぶ者もいれば、性行為を行う者もいれば、羽根を打ち震わせる者もいれば、フラペチーノをカスタマイズする者もいれば、四輪駆動車に乗り込む者もいれば、立ち飲み店でレモンチューハイをグイ飲みする者もいれば、やおら素足で走り出す者もいれば、でっかいヘッドフォンを装着する者もいれば、ラグジュアリーなカフェに入ってスコーンと紅茶を注文する者もいれば、ジグダンスを踊り出す者もいることでしょう。

それはそれは広い此の世の中ですから、私などにはとても想像もつかないような各々の行為で、自らの「本来性」を取り戻す者たちがきっとたくさんさんさんいらっしゃることでしょう。

 

さて、いささか前置き長くなりましたが、私は今日——「今日も」と言うべきか——まるで元気がありません。正味な話、心身ともにくたびれ、「私」に所属するあちこちが私に不調を訴えています。この1ヶ月ばかり、や、長い目で見ればもう数ヶ月以上、こんな感じなんです。いえ、こんな感じ、ばっかなんです。

それで今日、私こと僕は、いつまでもこんなことではいけない……とようやく思ったのでした。Just do it!!ナイキ精神で行動しないといけない。出かけなきゃ。

 

だって、私は、死んでいるんじゃないんだもの、生きているんだもの(いちおう)。動けない灰色の硬いお墓と違って、雨が降ったら軒先に向かって走り出すことができるんだもの。泥んこになりながら。涙を流しながら。湯船を想いながら。

それでも、きっと私はお墓の前で濡れるのにまかせて立ちすくんでいることだろう。レインコートと雨水を弾くようなスポーツ・キャップと長靴を身につけて、安全気分で。

それでも、長いこと激しい雨から逃れることはできない。私は「ぬかるみ」に入りこんでいるらしい。足下がじょじょに「ずぶずぶ」してくる。誰の声も聴こえない。激しく降り続ける雨の音と、その雨が墓を打ちまくるざあざあ音だけが自分の内にまで響いている。風景は土砂色にけぶっている。背中を生ぬるい雨が生々しくつたう。

 

雨に打たれまくりながら緩慢な死を思う。緩慢な死の終着点はお墓か? 

いや、そうではあるまい。死者とお墓にはリコッタチーズと梅おろし蕎麦くらいの関連性しかないはずだ。終わりはお墓になど目もくれず、新しい始まりを始めることだろう。構築された者は破壊され、組み直されるだろう。記憶も奪われ、まっさらな魂として。

やがて悠久ほどと思える永き時間が過ぎた後、闇の中、

「ウィンナー・ポテトができたよ!」という聞き慣れた声が響く。

ウィンナー・ポテト……。まるで古き良きアメリカ。いや、あるいはドイツかも。僕は生まれも育ちも国籍もまったきジャパニーズだが、気質は西欧的、と感じることがままある。それは例えば漆黒の暗闇の中で「ウィンナー・ポテトができたよ!」という声を聞いたような時だ。あるいは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽を真夜中に聴いたような時だ。あるいは、君が午前3時に電話をくれたような時だ。

 

ウィンナー・ポテトとバッハの音楽。そこに必要なのはカラフェにたっぷり入った赤ワイン。常温のピノ・ノワールをゆっくりと飲む。

飲みに、出かけようぜ。と言いたい。が、俺はまだ墓の前で立ちすくんでいる。