水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

嬰ハ短調的睡眠の希求

「春眠暁を覚えず」と言う諺とはウラハラに、春が到来してからろくすっぽ眠れていない。「不眠症」とまでは言わないまでも、浅い眠りで何度でも目覚めてしまうから、睡癒が得られない。ちなみに「睡癒(すいちゃく)」という言葉は、今、勝手に作らせてもらった。以後お神酒知りを。もとい、お見知りおきを。

二日酔い&寝起きだからか、言語が乱れている。ついでに通信機器(wi-fi)の電波も乱れているらしく、切って、入れ直しても、なかなか接続されない。ゆえに、この記述は現在オフラインで記されている。記し終えたらコピーして、あとで繋がった時にアップするつもり。しかし、そんなことはどうでもいい。

このところ、このブログなる記述に何を記したら良いものか、戸惑ってばかりだ。理由は判っている。著者(私)が、自己の状況・状態について記したい欲求を持っていないから。むしろ、消極的でさえある。

ここに記しているのは、おもに「生活」と「所感」である。こんなことがあった、あんなことを感じた、あまり眠れなかった、明日は名曲喫茶仕事だ。その手のやつ。といっても、生活も所感も、日々、季節の推移によって微妙に、しかし確実に移り変わっていくものだから、今日こんな状態だからと言って、明日も同じような状態であるとは限らない。とくに気分なんて、状況によって転がる石のようにころりころりと変わってしまう。だからこそ、記し、残しておくことがときに役に立つ。こともある。ときには「足かせ」になってしまう。こともある。ときには記したことさえすっかり忘れてしまう。ことばかり。

明日はテンション高く、ディズニー映画について記しているかもしれないし、電子辞書の比較レビューを記しているかもしれない。あるいはストラヴィンスキー「春の祭典」をスヴェトラーノフ指揮とブーレーズ指揮で聴き比べてみての感想について記しているかもしれないし、吉祥寺で見つけた、春ものの素敵なシャツについて述べているかもしれない。それとも浅い眠りによって見た夢についてくだくだ述べているかもしれない。聞きたくなー。

ともあれ、そんな風に、いつだっておめでたく生きていきたい。世界がもたらしてくれるものたちを、頂けるものはありがたく享受していたいと心から思う。

何の話だったか。そう、自分の状況や状態について記したい気持ちにまるでなれない、という話でした。そんな気持ちを私はここで吐露しています。この場所は今、「消極的な気分」を吐露するための「受け皿」として利用されているようです。

あ〃、何らかのタイミングによって、ブックマークによって、検索によって、この記述を読んでいる人のことを考えると、いささか申し訳ない気持ちになります。私としては、も少し有用な、そうでなければせめて面白みのある記事を提供したいのですが。

とりま、ベートーヴェンの弦楽四重奏 嬰ハ短調(作品131)を聴きます。吉田秀和氏が「私の好きな曲」で賞賛していた曲。氏は「私にとって『絶対の音楽』だった」とさえ書いていました。利口さを微塵も感じさせない言い方で述べると、私も大・大・大好きな曲でして。自分の存在が、感情が、人生が、普遍的で、人間的で、儚いものであることをはっきり得心させてくれる曲です。おまけに、そこにはかけがえのない美しさがあります。それも創出した美しさではなくて(創出された美しさもまた素晴らしい芸術でありますが)、計らずも零れ落ちてしまった涙のような、気恥ずかしいような、自然で否応ない美しさがめくるめく溢れている曲なんです。

吉田氏の名文によると、この融通無碍な演奏はブダペスト弦楽四重奏団かジュリアード弦楽四重奏団による録音物が推奨されておりますが、当方残念ながら所有しておりませんので、絶妙なヘタウマ加減(失礼)で有名なアドルフ・ブッシュ氏率いるブッシュ四重奏団で聴かせて頂いています。「古めかしい」と感じさせないくらい古めかしく、安寧を感じさせてくれるくらい絶妙にズレており、たいへん味わい深い演奏なんです。浅い春眠の傍らでいつでも鳴っていて、ね。