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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

シューマンとエリオットの心響(私の場合)

唐突だが、昨日は不可思議な1日だった。

早朝から恐ろしく体調不良だった私は、かれこれ5年間ささやかに営んできた名曲喫茶を今日ばかりは臨時休業させてもらおうか(ほとんどないことだ)、あるいは無理に行って開けてみて、どうしても無理そうだったら途中で閉めるか……。

などと、吐き気と耳鳴り止まないせいで、うまく回らない頭で弱気に考えていた。店に向かう途中などは、まるで漫画かアニメのキャラのようにオーバー・アクションでよろけまくってしまい、通行人や商店街の方々が警戒と心配が入り混じった目線を送ってくれているのが如実にわかった。全て、春のせいです。そうでなくてもそういうことにしておいてください。

いつもの倍くらい時間をかけて掃除と支度を終え、どうにかいつも通り正午に店を開けた。そして、このような日に限ってお客さんは次々とご来店くださるのだ。実のところ、自分が何のレコードをかけたのか、ろくすっぽ憶えていない。いや、1枚というか1曲だけ憶えている。アレクシス・ワイセンベルクの弾くシューマンのピアノ曲。余談だが、このCDはすでに廃盤になっているものを、所有していたお客さんに頼み込んで譲ってもらった貴重なものだ。

そのシューマンにめくるめく春を感じた。いや(否定)、それは正確ではない。クラシック音楽には、どんなものにもそれぞれの四季を感じるから。古今東西多くの作曲家たちが「四季」を主題とした楽曲を作ってきたのは、じつに得心できる。「季節」を含む森羅万象は、必然的に、自然に、人間という自然によって音楽に封じ込められていくものだと思うから。あるいは、音楽それ自体が森羅万象と言うべきかもしれない。「音楽とは存在」。そう言うべきかもしれない。エッセ、ザイン、エトル……。大通りの桜はもうすっかり葉桜かな……。コーヒーの煎りがいつもよりもやや浅いな……。

そんなようなことを(考えるともなく)考えながら、せっせとコーヒー淹れ、パンを焼いているうちに、いつのまにか、いつのまにま午後3時を回っていた。繰り返しになるが、その3時間で翌日の現在、憶えているのはシューマンのピアノ曲だけだ。そんなにワイセンベルクの弾くシューマンに思い入れがあるのか?と問われると、「いや、そういうわけでは……。」と答えざるを得ない。シューマンにもショパンにもブラームスにもそれぞれに固有の、強力な思い入れがある。それでも昨日、ある種の生命的危機を感じながら、時間を忘れて働いていた時のピアノの響きは異様なまでに鼓膜に焼き付いている。おそらく、危機的状態と春の気と私の個人的感情と店内の空気を、シューマンのピアノ曲が束ねて昇華してくれたのだろう。そうでなくても、そういうことにしておこう。

夕方になって、心身落ち着いてからかけた曲は全部記憶している。40年代録音のSP盤ベートーヴェン「ロマンス」、バッハ・ハウスにおけるコンサート(バッハのコンピレーションアルバム)、ワルター・ギーゼキングのドビュッシー、ウィルヘルム・ケンプのバッハとヘンデル。やはり個人的な安寧を覚える盤に無意識に手が伸びていたように思う。僕はとにかく落ち着きを求めていた。

余談だが、店を閉めてからも、全体的に不思議な時間が流れた。傍目にはとくに不思議には見えないかもしれないけれど、僕にとっては「ふしぎせんばん。」な一夜であった。4月は残酷な季節だ。と、詩人T・S・エリオットは「荒地」に書いていた(たぶん)けれど、本当にそうだ。ふとした瞬間、気体になってしまいたくなる。今は夏の到来までもが待ち遠しく感じる。冬はずいぶん遠ざかってしまった。

再び余談だが、今朝は白猫の夢を見た。昨年末に他界した相棒猫にとてもよく似ていたけれど、それは外で出会った(そして連れ帰った)別猫(という設定)だった。でも、動きも見た目もほぼ同じようにしか見えない。母がその猫に嬉しそうに声をかけていた。そんな夢を見るのはたぶん2度めか3度めだ。

まったくもって、余談と私事がバーストしまくってきたので(なるべく私事を書かずにブログを運営したいのだが、なかなか難しい)、今日はここでキーボードを置こう。(わ、もうこんな時間!)