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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

葉桜と紙巻き煙草のワルツ

大通りの桜はここ数日の激しい雨風でだいぶん散り去り、梢にはちらちらと若葉が混じり始めている。見に行ってないけど、そういう風景を期待している自分を感じる。

先日も書いたことだが、今年は(地元の政策も手伝って)花見人の数がやたらと多かった。朝、昼、夜……きっと今現在も。人が少ないのは真夜中くらいか知らん。

私も常人らしく、陽が出ているうちは開けっ広げな空気感と飛散しまくる花粉に気後れしてしまって、ゆったりお花見気分にはとてもじゃないけどなれない。深夜、人気の少ないベンチに腰かけて缶ビールなど呑んでいる時が、もっとも春の気を感じられる刻だが、今年はそんな余裕もなかった。いっそ知人友人に声をかけて、敷物敷いて出来合いの総菜と缶ビールなど並べて集団的花見行事を強行する——というのもこの時期を乗り切るひとつの手だてであろう。が、これもどうにも気が乗らなかった。そも、招集しても誰1人集まらないかもしれないし。

手の付けようのない春。受け入れることも、突っぱねることも、やけになって楽しむこともできない春。暗い不安と淡い期待と透明度の高い哀しみに包まれる春。

そんな春の夜はきまって煙草を喫いたくなる。衝動的だったり、発作的だったり、あらがえない欲求によって。

毎年、春になると煙草屋でひと箱買い求め、桜の花が散りきる前に嗜むのが常だった。でも、去年一昨年と(たぶん)1本も喫っていない。今年もたぶん喫わないだろう。「春の夜、誰もいない公園で喫う」という行為は、長年をともにした煙草に対する自分なりの誠実な向き合い方だったが、あまりにご無沙汰しているうちに、ぎこちない挨拶にわざわざ出向くのが面倒になってしまったようだ。もはや誠実とは言えない。今年は煙草の代わりに酒瓶持って、あの公園に行こうかな。すっかり散りきらないうちに。

さらにまったき自分話が展開する。

かつて、かなり夜型の生活をしていた。明け方まで起きていられる肉体的/精神的/時間的余裕があった。それで春の夜が更けると自転車にまたがって、「ここではないどこかの桜」を探してあちらこちらへ赴いた。具体的に言うと、多摩川とか玉川上水とか日野とか小平とか国分寺西町とか。それは自分らしく、落ち着いて浮き立てる希有な時間だったように思う。ここ数年、そういったことをろくにしてない。せっかく自転車を新調したのだから、久しぶりにやってみるか。やってみよう。

春だからか(春でなくても)、とりとめのないことばかり記している。なんやかやで今日も花見に出かける余裕はない。明日明後日は名曲喫茶が私を待っている。12時間、ひとところでクラシックを聴きながら働けることがじつにありがたい。何か、春らしいワルツをかけよう。いらしてくださった方が春の到来を感じてくれそうなやつを。