水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

コーヒーとクラシックと雨の総量

昨日から長雨が降っていて、今朝になってもなかなか小止みにならない。だからか、妙な冷えこみ具合だ。普段、食卓で暖房器具を点けることはあまりないのだけど、今日はサラダを食べながら思わず電気ストーブに手を伸ばした。

サラダ(サニーレタス、キュウリ、トマト、エシャロット)を平らげ、おでん(大根、ごぼう、厚揚げ、焼き豆腐)を平らげ、今、名曲喫茶に向かう前に。4月のいっぴだから何かしら(何でもいい)記しておきたかったけど、帰宅したら多分どっぷり疲れていて、何も記せないこと請け合いだ。週末だもも。

しかし長雨降り続く冷たい土曜日の朝に、何が記せるものか?

今、熱い濃いコーヒーが無性に飲みたい。が、ここにはコーヒーミルはあっても豆がない。店に行けば新しい、手付かずの豆が用意してある(商売道具の準備には余念がない)。なのに、なぜここにないのか。5年前、「おいしいコーヒーを出す名曲喫茶」をうたった店を始めてから、私はじょじょに自宅でコーヒーを飲まなくなっていった。以前は少なくとも1日2杯は必ず飲んでいたものだが。

なぜ飲まなくなったか? 端的に言って、コーヒーを淹れることが仕事になったからだろう。同じことはクラシックにも言える。以前に比べて、自室でクラシックを聴かなくなった。寝しなにクラシックのCDをかけながら床に着く。そのくらい。

どうしてかというと、クラシックは土/日に店で1日10時間ほぼぶっつづけで聴くから。つまり週に20時間、月に80時間ちょっと(祝日含む)。これだけ聴けばじゅうぶんであろうか。いや、本当はもっと聴きたい。

さて、同じことはコーヒーについても言える。私は土/日にコーヒーカップ約10杯コーヒーを飲む(味見含む)。平日は現在でも週に3、4杯はなじみの喫茶店やコーヒーチェーンでコーヒーを飲むから、均してみると、以前と変わらずちゃんと1日2杯は飲んでいることになる。

つまり、クラシックもコーヒーも摂取している総量は今でもほとんど変わっていないわけだ。2日に凝縮されているというだけで。

サミュエル・ベケットの有名戯曲『ゴドーを待ちながら』に、「世界の涙の総量はけっして変わらない。何処かで誰かが泣き始めたら、何処かで誰かが泣きやんでいる」という台詞がある(うろ覚えなので、正確ではありません)。有名だろうとそうでなかろうと、ひときわ好きな台詞だ。こうして窓の外ではしつこく雨が降り続けているけど、そのぶん、何処かで降っていた雨は止み、春らしい濃まやかな青空が広がっていることだろう。何処でかは知らないけど。

私事だが、かつてサミュエル・ベケットの存在と上記の戯曲を教えてくれた人は、10年前、私にデロンギのコーヒーミルをプレゼントしてくれた。私はそのコーヒーミルをずいぶん長いこと、ほぼ毎日、自宅の台所で使ってきた。今や豆も均一に挽けなくなってしまったが、先日引っぱり出して、綿棒とブラシを使って大掃除してみたところ、まだ使えそうで嬉しく思った。明日、私はそのミルで挽いたコーヒー豆を、象印のコーヒーメイカーにセットしてそれほどおいしくないコーヒーを飲んで悦に入っているかもわからない。

ああ、例によってとりとめもない話になっちゃった。行って参ります!