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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

10月のまとめ

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驚くべきことに、今年の10月は1日もブログを更新しなかった。ここ「はてな」というサービスでブログなるものを始めてから10年以上経つが、公開状態で1ヶ月以上更新しなかったのは何気に初めてではなかろうか。

なので、この空白の10月を「1ヶ月更新しなかった希有な月」としてそのままにしておくことも考えたが、暫く考えた末、ざっと振り返ってみることにしよう。すみません。いや、謝ることもないか。でも、謝っておこう。2016年の10月に。

 

映画

今月、映画館で2本の映画を観た。初のジブリ名義海外制作作品『レッド・タートル』とたぶん皆さん御存知『君の名は。』。

観賞前は、どちらも「アニメ」というフォーマット以外、全く異なるタイプの作品だと捉えていたのだが、じっさい観ると、どちらの作品も似た痕跡を残した。余談だが、先々月に『シン・ゴジラ』を観賞し、これにもかなり「ぐっ」と来たけど、個人的には『レッド・タートル』と『君の名は。』に私的で深くて濃まやかな感動をぐいっと持っていかれてしまった感がある。

内容や画を殆ど忘却してしまっても、ところどころで陳腐だ……幼稚だ……と心の中で揶揄しながらも(とくに『君の名は。』において顕著であった)、この2作品はばっちり「感じさせて」くれた。何を? ああ、それを言語化することはすこぶる難しい。それに、口にした途端に陳腐に響きそう。微かで奇妙な、でも、たしかに自分の内にかねてより在った何か。そんなようなことに気づかせてくれた。それがどう表されているかは(さほど)問題ではない。作品の内側にこもっていた「それ」が「観賞」という行為によって噴出し、多くの人の心を、私の心をぐいぐいと突き動かしたこと。大事なことはそれだけだ。

『レッド・タートル』も『君の名は。』も、小さな、あまりにも限定された「個」の物語(舞台は無名の島と東京と片田舎だ)から、普遍的な場所(それは時間と土地という概念を越えた、普遍的な地平だ)に辿り着く——そのような構造においても、この2本を続けて観たことに個人的な、連鎖的意味あいを感じた。ぶちまけた話、どちらも観賞中/観賞後に泣きそうになった(泣かなかったけども)。その主題は自分にとってあまりに身近すぎたのかもしれない。そして、多くの人にそのように感じさせたことであろう。ジュテーム、そんなことだ。

 

音楽(活動)

思えば祭日が多かったような気ぃする10月だったが、(今のところの)ライフワークである名曲喫茶はいつも通り虎視眈々と開け閉めしていた。誰が来てくださろうと誰も来なかろうと、こちらにできることはとにかく規定の時間に開け、大きな音でクラシックを流し、規定の時間に閉めること——そのくらいしかない。今年で5年めを迎えたこの為事だが、なんというか、今だ全然慣れない。ルーティンワークにならない、という意味では良いことかもしれないが、この「こなれなさ加減」はちょっと異常に思える。「大切な場所を預かっている」というような緊張感が依然として抜けない。少なくともこの店を開けている間は、大声や、荒々しい気や、喧騒諸々を避け、クラシック音楽と心の平安を求めてやって来る人たちのために、私は堅牢な門番であり、融通無碍な選曲者であり、腕の良いコーヒードリッパーでありたい、あらねば、ならぬ。これからも。

余談だが、《クラシック課外活動》と言うべきか、今月も六本木サントリーホールに読売交響楽団 feat.五嶋みどりの公演を聴きに赴いた。内容は……素晴らしかった。さらに言えば、或る楽曲が五嶋みどりそのもの(itself)であった。その曲は作曲者もタイトルも忘却してしまったが(ググればわかるがやめとこう)、僕とほとんど歳の変わらぬ西欧人が作った、まったき現代音楽であった。例によって目を瞑ったまま聴いていたのだが、禅と能楽をひしひし感じさせる、見はるかす内的世界そのものであった。これは、観客と演奏者がともに見ている夢の磁場である。そんなようなことを強く思った。

終演後、母の知り合いで読売交響楽団でヴァイオリンを長年弾いておられるOさん夫妻(奥様も西欧で活躍するヴァイオリニスト)に誘って頂き、オーバカナル(サントリーホール前にあるビストロ)で母と友人女性とともにワインをご一緒した。さっきまで壇上で威厳のあるアウラを放ちながらヴァイオリンを弾いていた方が目の前でついさっきの演奏のことを話しているのはなんだかとても不思議な気持ちだった。まるでいつか見た夢の続きを見ているような。