水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

『救い出される』を読んで(ふっと思った海外文学翻訳事情)

 

救い出される (新潮文庫)

救い出される (新潮文庫)

 

こんばんは。また暗く狭い押し入れの中に広がる漆黒の闇の中に戻ってきました。

先程、先日ちょっと触れたジェイムズ・ディッキーさんの長編小説『救い出される』を読み終えました。村上春樹氏と柴田元幸氏の解説によると、この作品は『わが心の川』というタイトルを、村上御大が今回の再版にあたって新潮社に提言した結果、『救い出される』に変わったそうで。つまり翻訳は以前のまま、タイトルのみ村上御大が付け直したということなのでしょう。実際、読み終えてみると、『わが心の川』などという前時代的なタイトルよりも『救い出される』の方が、ずっとストレートで原作タイトル(Deliverance)に忠実なことは確かですし、御大のピックアップがなければけっして再版されることのなかったであろう「埋もれていた1冊」であることを考えれば妥当な判断でしょう。

ですが、正直、翻訳者以外の人間(編集者であれ選本者であれ)がタイトルを付け替えてしまうというのは、どうなのか……といささか首をひねってしまったことも事実です。サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』チャンドラー『長いお別れ』などは言うに及ばず、新訳の機会にタイトルも一新されるのは当然のこと。しかし、今作の翻訳者(坂本雅之氏。ホイットマン、エマソン、ソローなどのアメリカ詩人・小説家の著作を精力的に訳しておられる)が故人だったらともかく、まだご存命のようだし、この改題に気をわるくされたりしなかったのだろうか……と、要らぬ心配をしてしまったことも事実です。あるいは、村上御大と柴田先生にピックアップしてもらい、「村上柴田翻訳堂」という今旬な企画に選出され、今作が何十年かぶりに日の目を見るだけでも僥倖であり、感謝こそすれ憤慨したりはしないのだろうか……どうでしょう。わかりません。

もし僕が翻訳者だったら、「イツキさん、あの、これ、訳は経年劣化していないようなのでこのまま出させて頂きますが、タイトルだけは村上さんがちょっとピンとこないとのことでしたので、『救い出される』というタイトルを付けて頂きましたので、ご了解よろしくですっ」などと、にべもない口調で言われたら、わりと複雑な気分になるような気がします。ううむ、私なりに思うところあって(と坂本氏の「あとがき」には書かれている)『わが心の川』とつけたのだがな……。と顔を曇らせるかもしれません。正直なところ。

『わが心の川』。たしかに、いかにも古色蒼然としたタイトルではあります。だけどそれなら、「イツキさん、これ、タイトルだけちょっとアウトオブデイトですので、現代に合わせて別のタイトルに変えてもらえませんか? あ、できれば、原作タイトルに近い感じだと助かりますです」などと、申し訳なさそうな笑顔で頼まれたら、「ふむ、たしかにそうだよな」って感じで、気分を害することなく、前向きに新タイトルを考えるような気がします。

 

で、僕が翻訳者だったらどんなタイトルにするか? きっと、迷わずに『救われ』というタイトルにするような気がします。J.ディッキー『救われ』。なんだかR.D.レインの『結ぼれ』みたいだが、それよりもずっとひねりも可笑しみもありません。それにしても『救い出される』か……。何だか「救命隊に命からがら救助された」みたいな光景が先ず浮かんでしまいました。まあ、実際に命からがら救い出されたところもないではないのですが、主人公が長い道程を自力で乗り越え、川から出た印象のほうがずっと強いので。ただ、俯瞰っぽい視線で思い返してみると彼らは「自力で川から抜け出した」のではなくて、やはり「救い出された」のかもしれません。巨大で強大な見えざる力によって。そこには口にはけっして出されないある種の「信仰心」「篤心」のようなものも感じられます。

まあ、改題についてこれ以上考えるのは止めましょう。実際、『救い出される』の方が若い読者は手に取りやすいでしょうし、その内容はページを繰る手がうまく止められないほどハラ・ドキ、しかも村上御大が書いていたように「たんなる冒険小説じゃない」ことがひしひしと伝わってくるようなエナジーとポエジー溢れる大作なのですから。中盤以降の展開はあまりにもハラ・ドキすぎてしばらく読み返したくありませんが、きっと再読は避けられないことでしょう。

 

ワタクシゴト的余談。私は昔から、長い小説を一気に読むのが(もちろんそれだけの時間が許されている時に限られるのだが)ほとんど唯一の「特技」みたいなものなのですが、このところ、読書をずいぶんと怠っていたので、いささか今作に「入りこむ」のに時間がかかりました。読むスピードも昔よりずっと落ちているのを感じて一寸焦りました(一番早かったのは中学生の頃でした)。走ることも読むことも書くこともコーヒーを淹れることも、日々鍛練していないと(あるいは習慣的に行っていないと)、どんどん鈍っていきます。そういうこともあって、ここんとこ、この「押し入れ記述」みたいのを続けているところもあるのやもしれません。昔はぐうぐう眠りこけていても、ぐらぐら酔っぱらっていても、毎日知らないうちにブログが更新されていたのですが、今はそういうことは滅多に起こりません。だから、酔っぱらう前に、眠りこける前に、心が沈みこんで押し入れの中でつっぷすることしかできない……といった状態になる前に、自らを「救い出す」必要があるようです。それでは、明日も人生頑張りましょう。おやすみなさーい。