水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

五嶋みどりの奏でる音楽とは(6/20 六本木サントリーホール)

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先日、待ちに待った五嶋みどりの演奏を聴くべく、六本木サントリーホールに行ってきた。

昨年NHKホールで彼女が奏でた、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの魂がまざまざと現出し、その生々しい音が場内をひたひた満たしていった、幽玄そのもののようなヴァイオリン協奏曲第1番(パーヴォ・ヤルヴィ指揮/N響)は僕の中で(そしてきっと多くの人の中で)唯一無二の体験となっている。あのような凄まじい演奏にはなかなか巡り合えるものではない。

今日の演奏は、その曲目と演奏形態(オズガー・アイディンとのデュオ)から、前述の「ここを先途」といった鬼気迫る演奏とは全く別ものであり、比較的ライトなクラシックファンにも受け入れられやすい公演になるだろう、と予想していた。しかしなんと言っても五嶋みどり。彼女がサントリーホールでどんな音を奏でてくれるのか?といった好奇心が手伝って、開演前から期待は高鳴るばかりであった。

 

サントリーホールを訪れるのは、昨年、アントニオ・バッパーノ指揮/ローマ・サンタチェチリーア国立管弦楽団「ブラームス交響曲2番」のリハーサルを拝聴して以来である。

その日、耳にした一糸乱れぬ完璧な出音に感銘を受けたこともあって、今日も音の「鳴り」にばっちり期待していた。バッパーノ指揮で聴いたシンフォニアは、英国バービカン・ホールを遥かに凌駕するような立体感と一音一音の粒が際立つような凄い音像だったから、どんな演奏形態であれ、ここでは最高の音が響くだろうと決めつけていたのだと思う。

しかし、演奏開始早々、それが素人考えであることをいきなり思い知らされた。この日、音の鳴りにおいては、とくに序盤はずいぶんがっかりしてしまった。

 

演奏そのものは1曲目(リスト「ヴァルス・カプリース」)から素晴らしかった。いや、素晴らしかったように(遠くに)聴こえる、というべきか? 

端的に言って、デュオ演奏(あるいは小編成における演奏)の生きた出音がサントリーホール全体に行き渡っていない。そう感じた。もっと前列で聴けたら印象は大きく異なっていたことだろう。だが、2人の奏でる音は僕(21列目)のおよそ10メートル手前あたりで「出音」として在るべき性質を失ってしまっている。サントリーホールはシンフォニア演奏において国内でも屈指の場所なのだろうが、小編成やソロ公演では、その設計/面積上、満席となった聴衆全てに適切な音を届けるにはいささか厳しいものがあるようだ。そう思わないわけにはいかなかった。

あ〃、この音をもっともっと小さなホールで聴けたら……というフラストレーションが膨らみながらリサイタルは着々と進んでいく。

 

私事だが、僕はクラシック生演奏においては、ほとんど最初から最後まで目を瞑ったまま聴くようにしている。僕はあくまで「音」を聴きに来ているのであって、演奏者の姿を見に来ているわけではないから。(思いこみかもしれないが)瞼を閉じることによって、聴力を人為的に上げることができると固く信じてもいる。

しかし五嶋みどりの演奏に関して言えば、姿そのものがまったき「表現」となっているかのような独特な演奏姿勢と、その精悍かつ音楽的な表情につい目を奪われて、前回のN響公演時は、珍しく最後までほとんど目を開けたまま聴いていた。

でも今日は1曲目でその「音の遠さ」に危機感を感じ、2曲目(シェーンベルク「ヴァイオリンのための幻想曲」)からは固く目を閉じて「聴くこと」のみに意識を集中させていた。それでも「遠くで鳴っている、素晴らしい(であろう)演奏」に意識と鼓膜をなかなかアジャストすることができなかった。あっという間にブラームス「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番(所謂「雨の歌」)」が終わり、第1部終演。

 

休憩時間。「これじゃあかん。」と思い立って(普段は公演中に酒を飲むことはまずないのだが)バーでシャンパンを注文し、おもむろに飲み干した(おもむろに飲み干すのはもったいないくらい泡がきめ細かく、きりっとした飲み口のおいしいシャンパンだった。さすがサントリーホールである)。

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そのようにして酒精による聴力補強(?)を目論んでみたものの、4曲めモーツァルト「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」でも、ステージとこちらの間に薄皮2枚挟まれているようなもどかしさは消えない。加えて、早い時間からの葡萄酒はいささか回りやすいのか、意識がやや朦朧としてきた……。天上的美しさと安寧にみちた旋律による、幸福な金太郎飴的時間に眠気もどんどん増していくばかり(上等なシャンパンの酔いにまかせて聴くモーツァルトのヴァイオリンソナタはそれなりに至福ではあったけれど)。 

 

しかし、そんな眠気と音響への違和感もラスト曲「ヴァイオリンとピアノのための幻想曲」(シューベルト)で雲散霧消したのだった。

 

この美麗な、諦念と幻想に溢れた長大なる楽曲は、かつて近所のレコード店で買ったアドルフ・ブッシュ/ルドルフ・ゼルキンのラジオ局ライブ盤でこれまでに(少なくとも)500回以上聴いてきたように思う。f:id:lovemoon:20160623171433j:plain

そのくらい分厚い耳馴染みと親しみがある楽曲だからだろうか? 冒頭のトレモロのようなナイーヴなピアノが響き、その上を優しくなだめすかすように、シルキーな音色が厳かに奏で始められた時、静かな懐かしさと愉悦が私をゆっくりと包みこんでいった。

互いを優しく鼓舞し、感動的なフィナーレに向かってゆっくりと高めあっていくような、この曲における2人のセクシャルな演奏は、知らず識らずのうちに僕の内で癒着していた、この楽曲に対する、憧憬を呼び起こすようなモノクロ色(それは死に対する印象に限りなく近い)の印象をじわりじわりと刷新し、会場内の時間軸を確実にずらしていった。そこには清新な演奏があり、はっとするような新鮮な解釈があった。長大な楽曲が静かに、ゆっくりと生命を宿しながらも「果て」に向かっていくような深い感動があった。

 

その刻、意識と耳はすっかり音楽に集中しながらも、自分が心の奥で「五嶋みどり」という比類なき演奏者に対して何を求めているのか? それを言葉にならない領域で得心できたような気がした。

それを今になって(無理矢理に)言語化してみると、やはり前回のN響で感じたことと大きく重なるようだ。

「人間」「個」や「我」を越えたところ、あるいは全く別の領域で鳴らされる「音そのもの」——それは、音楽の「実像(相)」と言っても良いかもしれない。

無論、人間的自我(ego)や人間的感情(emotion)といった精神的媒介を通して鳴らされる(鳴らされてきた)音楽を否定するわけではもちろん、ない。音楽を生むのも、音楽を奏でるのもまったき人間なのだから。自我や感情といった場所から立ち上がる世界、表現、解釈というものは美しくとも、たとえ醜くとも愛おしい。

しかし、僕が五嶋みどりという1人の演奏家を通して、熱烈に聴きたい、掴みたいと欲する音楽は作曲者の意図や演奏者の感情を越えた、言ってみれば「イデアそのもの(music itself)」のようなものらしい。「そんなものは幻想にすぎない」と言われればそれまでだが。

しかしラストに奏でられた「幻想曲」は、そう強く思えるほど純度の高い、澄み切った水のように、あらゆる意味でクリアな「音楽」そのものであった。この曲に内在している、シューベルト音楽を集大するようなふくよかな旋律と、「生」に向けられた透明かつ夢想的情感(それはまったく誇張されていないし、いささかも見過ごされていない)が、シューベルト楽曲特有の「覚醒と眠り」の狭間からほの聴こえた、ような気がした。相変わらず耳をこらさなければ聴こえないくらい小さな、でも確固とした音で。

 

アンコール。畳みかけるように続けて演奏されたフリッツ・クライスラー2曲に、五嶋みどりという演奏家の音楽的アティテュードが火花の如くほとばしったように聴こえた。それは存在する以上は避けることのできない哀しみと同時に、一瞬一瞬が持つ、圧倒的な喜びにみちみちているように聴こえた。