水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

あたしの桜

f:id:lovemoon:20160401123028j:plain

4月が戻ってきました。

ようやく、という感じもするし。もうかあ、という感じもあるし、やれやれ気分も多分に含まれております。

この頃になると決まって感じるこの「ひと巡り感」は、きっとヒトを含む多くの動物たち(そして動物以外の存在たち)によって周知されている、いかにもありふれた所感なのでしょう。そしてこのありふれた所感を裏づける、あるいは追い討ちをかけてくるのが桜たちの存在であります。

 

一斉に咲き誇る桜たちは、春という季節をも包摂する「ひと巡り」のイコンのように、メタファーのように、あるいはそれそのもののように全国各地に出現し、あたしたちの心をしばし激しくかき立ては乱し、憂鬱にさせ、深くため息つかせた後、「じゃ、また来年……!」登場の仕方と比べると、思ったより名残惜しそうに何度もこちらを振り返りながら無数の花びら残滓を残し、次の季節の主役である若葉へその主席を譲ります。

ここ数年、桜の存在にどうもうまく馴染めないのは、あたしと桜がうまく混ざり合っていないからだ……そういう気が強くしていました。芽吹いた桜を見た時に感じる心持ちが、かつてのそれとずいぶん異なっているのを凄く感じるのです。

あたしはもう見事な桜を前にしても、「はっ」としたり、はしゃいだり、浮き足立ったり、足を止めたりしません。「醒めている」というと何だかつまらないけれど、桜や、木々の下で花見を楽しんでいる方々にため息混じりの流し目を送りながら、あるいは大人らしく羨望の苦笑を浮かべつつ、そそくさと通り過ぎてしまうのです。トレンチコートの襟元をぴんと正して。

 

でも先日、いつものようにひと足先に花を咲かせてひと足先に散っていく、駅前の勇み足な名物桜を見上げた時、かつての自分の心持ちを朧げに思い出した。

咲き始めはそわそわして、日に日に春っぽい気がこみあげてきて、のぼせ上がったり、うな垂れたり、すっかり散ってしまわぬうちにあちこち見に行かなくちゃ……やたら気が急いていたあの頃。桜並木の下をそぞろ歩くことはもちろん、友だちをたくさん集めてベタで賑やかで普遍的な「お花見会」を決行しなきゃ……そんな義務感と欲望とよくわかんない、誰にもわかりっこない気持ちがまぜこぜになった気持ちに毎年襲われていたあの頃。実際、桜の下でブルーシート広げて宴を催したり催されていたあの頃。

朝桜も昼桜も夕方桜も夜桜も真夜中桜も明け方桜も見逃したくなかったあたしは屋上の団地に上って高いところから見下ろしたり、低いベンチから見上げたりしてた。咲き始めも満開も散り始めも同じように愛しく、同時にうら寂しかった。桜が咲いてるだけで、散ってるだけで無性に泣きたくなった。実際、泣いた。真剣に、たくさんさん。

 

でもいつのまにか、あたしは桜並木の下をそぞろ歩くことも賑やかな酒宴も催さず(催されても行かず)、大通りに咲き誇る桜もお気に入りの近所の公園にひっそり咲く桜も、枝垂れ桜ちゃんも山桜くんも、何だかすっかり他人事になっていた。己の心中を見つめてみると、その「他人事感」も毎年同じではなくて、じょじょに色合いを変えていく花びらに似た淡いグラデーションのような気分のビミョーな推移があったのだけど……。

いったいどうして桜はこれほどまでにあたしの心をかき立てなくなってしまったのだろう? そう思って立ち止まり、じっと桜を見つめた。そのまま何分か見つめ続けたと思う。

そうして、はっと気付いた。

あたしはある時期から、桜をもう「見て」いなかったんだ。1人で(あるいは誰かと)そぞろ歩いていても、桜の下にブルーシート敷いてワインボトルと缶ビールを並べても、団地の屋上から見事な桜を見下ろしていても。そこには透明だけど、ブルーシートよりもずっとぶ厚いヴェールがばっちり下ろされていた。それに気付いていたけど、気付かぬフリをしていたみたい。

 

「ゴザ強いて桜の下でどんちゃん騒ぎしているあいつら(おもに若者たち)は桜など見ておらんのだ……宴会の口実じゃ」

嘆かわしそうにそう仰る御人が時おり見受けられます。でもそれは違うんじゃないかな? とあたしは(僭越ながら)思うのです。一見、桜の樹の下でろくすっぽ桜も見ずに酒をあおり、ただ騒いだり、いちゃついてるばかりの彼ら彼女らは、自分の桜性と桜そのものを見事なまでに同期させているんじゃないか。彼ら彼女らには桜の存在を目で追う必要なんてない。全然ない。何故なら、彼ら彼女らは桜の精そのものだから、そこに居るだけですでにして彼らは桜なんだ。その在り方をああやって無邪気に、無防備に顕してくれている。

羨ましいね。でもかく言うあたしにも、かつて桜を見ずとも桜と一体でいられた時分があった。それはそれほど遠い昔のことでもなかった。あたしの桜。

 

桜は、花見は、うら若き者のためにある。と言いたいわけでは(もちろん)ありません。人にはそれぞれの桜との向き合い方というものがあるって思う。あたしはこれから、どんな心持ちで、どんな態度で、どんなやり方で桜の樹と向き合えば良いのだろう? 

本気で桜を「見る」ことは、きっとあたしが思っている以上におおごとだ。ずいぶん長いこと(いつからだろう?)あたしは桜から目を背けてきた。だけどこれから桜を本気で、自分の意思で見た時、あたしは「人生」っていう相当に限定された一刻に流れている「ホントの時間」の一端を言葉にならない領域で、目に映らない姿で再確認する。大袈裟だけど、たぶん、きっと、絶対。

ここんとこ、桜はあたしの心をめっきり打たなくなりました。こうなったら、初夏の万緑や背中をぴんと伸ばした向日葵たちに期待します——今日はそういう締めにするつもりだったのに、思いがけず桜見に出かけたくなってしまいました。だからこれから冷蔵庫から冷たい缶ビールを出して久方ぶりの花見に出かけます。マスクと薬は手放せないけど。あなたも良い桜見を、ね。

チェリーブロッサム!