読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

優しさとは?

本日もまったくもって私事ばかりであります(ここでの記述はいつだって私事ばかりなので、今後このような前置きも止めよう)。

どうもこの1週間ばかり、気持ちがずぶんずぶんに落ち込んでいたようで。それにつられて体調も優れなかった。「心と身体は繋がっている」とはよく言ったもので。

齡を重ねて厭んなる!なところは、たとえずぶんずぶんに落ち込んでいようと、無感情になっていようと、そういうのを「なかったことにして」どうにか振る舞おうとしてしまう、そしてどうにか「振る舞えてしまう」ことだったりする。

どころか、自分で自分がどういう状態なのか自覚することさえも意識的無意識に止(留)めてしまう。空に不穏な暗雲がたちこめていようものなら、「おや、おや。」と、自分をなだめすかし、空調のよく効いたロビーに逃げこんでよく冷えたビールを注文し、先延ばしにしてしまう。こういうのが「大人」の特性であり、特権であり、自分を傷つけないための、あるいは人様に迷惑をかけないための、必然的変化/能力なのだとしたら、そんなの退化だ! 後退だ! あたしゃあそんなの願い下げだよ!

って、起訴状を叩きつけるのがこの私。とも言い切れない昨今の私。

よかれあしかれ、割り切れない、振り切れない、掴みきれない自身の感情、そして、自分と(有り難いことにも)関わってくれている他者のそれと「折合うこと」を一義としている。折衷である。ような気ぃする。でも、よくよく考えてみるとそれは「厭んなる!」ことばかりではないのではないか? 翻って自己肯定するわけではないが、自分なりの——この言葉には慎重になるべきだが——ある種の優しさなのかもしれない。そんな気がしないでもない。

というようなことも、こうして記してみて初めて気付く次第。いや、本当は心奥では気付いていたのかもしれないが、文章にしてみない限り、自分の真正の心は掴めなかったりする。いや、文章にしてみてもろくすっぽ掴めちゃいないのだが。

 

「優しさ」は大事。

 

いきなりなんじゃ、と言われるかもしれません。では「愛」はどうか。そういえば優と愛って、今更気付いたのですが、似ていますね。優は左にニンベンがあることからして「人間愛」というということなのかしら。優は優(すぐ)れてもいる。何に対して優れているのだろう。優しさの反対にあるもの——憎しみだろうか。優しさは、いつでも、どこでも、何に対しても優れているのだろうか? 

 

以下余談ですが、私は自分の名前に「愛」という、まともに直視すること憚られるような眩い一字を授かっておりまして、この名前を生涯離さずに(離せず)に生きてきた、あるいはこれからも生涯抱えて生きていく所存でありますが、かつては、いや、つい最近まで、自分の名前にこの字があてられていることが不思議かつ恐れ多く、まったく自分に似つかわしくないような気がして仕方なかったです(名前のもう一字のほうは我ながらけっこう馴染んでいるのですが)。

しかしながら最近になってから、「愛」とは、自分が生涯を通じて離れられない(離せない)イデアなのだということが薄々(しかしはっきり)と判りかけてきたように思う。

「愛」は私に生まれつき備わっている特性などではなく(あるいは誰しもに備わっている特性なのかもしれない)、おそらくは、自分の本来性を見失っている時、確かな指針となるコンパスのように、座標のように、定点(北極星)のように、そして、その一字の確かな意味をしっかと識るために私は生きているのだということをけっして忘れぬよう、(私にとっての)人生の主題と願いと祈りを込めて若かりし母が付けてくれた名前なのだ。そんな風に意識するようになってきた。この齡になって。気恥ずかしいので(もちろん)、こうしたことを母に直に言ったり訊いたりはしないだろうが、どっちみち私の母はこのブログをいつか読むだろうし、母にはこの字をもらったことを密かに感謝しているということはここにはっきり記しておこうと思ったのです。

 

 

閑話休題。話がますます私事めいてしまいました。愛の話などするから。手前の名前の話などするから。

 

再び、優しさについて。

そう、この1週間、心身ともに優れなかったというのは、優しさなるものをすっかり失っていたからなのだと思う。では、優しさとは何か。私の好きな作家レイモンド・チャンドラーは『プレイバック』という最期の小説の終盤、主人公探偵フィリップ・マーロウにこんな台詞を吐かせている。

「しっかりしていなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」

このフレーズは空で憶えていて、上記は早川文庫の清水俊二が訳した台詞なのですが、僕はこの小説がチャンドラーの著作の中でもとくべつに好きで、だけどこの訳にはやや違和感があった。本棚に大学生の頃に買った原書のペーパーバックがまだ並んでいるので、ちょっと引っぱり出して原文を引用してみましょう。(しかし、その箇所を探し出すまでがけっこうひと苦労だったり。あったあった……)

「How can such a hard man be so gentle?」she asked wonderingly.

「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive」 

(恥も外聞も捨てて)試訳。

「あなたみたいな頑な男がどうしたらそんなふうに優しくなれるわけ?」彼女(ベティ)は信じられないように尋ねた。

「頑なでなければ生きられなかったんだよ。そして優しくなければ生きるのに値しなかったのさ」と私は言った。

hardを「頑な」と訳すのはいささか無理がありそうですが、前後の文脈から「冷酷」「固い」「しっかりした」ではしっくりこなかったので。

しかも小説を読んだ方にはお分かりだと思いますが、2人の会話は字義通りのストレートな会話ではないのです。言ってみれば「かけあい」みたいなもので。ベティさんの「どうしたらそんなふうに優しくなれるわけ?」は完全に皮肉(揶揄)です。でも、マーロウさんの返した言葉にはウィットを込めながらもかなりの本音(人生観)が宿っている——私はそう思いました。優しくなければ生きるのに値しない。私はどうすれば「優しく」なれるのか、まだまだうまく掴めないよ、マーロウさん。

『プレイバック』の引用を好い機会にして今日はここまでにします。明日からは元気をいっぱい出していっぱい更新しようと思っているのでどうぞよろしく。

プレイバック (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 7-3))

プレイバック (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 7-3))