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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

走ることへの残り火

例によって私事ですが。

先月半ばから、私にとって唯一の有酸素運動・走ること(所謂ジョギングという行為)をすっかり休んでいます。なんのかんので10年近くコンスタントに中距離を走り続けてきた私にとって、これは結構な異例事態。ここ数日も、酒を飲んでいても、押し入れにこもっていても、テレビゲームしていても、『ファウスト』を読んでいても、「ラン……ラン……」という言葉が時おりひゅんひゅん脳裏をかすめるのだけど、首を振りつつ苦笑いして誤魔化してきました。

 

何故に走ら(れ)なくなったのか? 

 

これまた私事のうえに、言い訳がましいのですが、それはただの怠慢というわけではございません。そも、私はやり始めるとよほどのことがない限り、たとい成果が見られなくてもだらだら続けてしまう性分なので、何かをすっかり止めてしまうことのほうが難しいのです。ただ、昨年から6キロばかり走っただけで、息はすっかり上がっているし、翌日やたらと足首が痛み、ふくらはぎがばんばんに張り、歩くことも立っていることも困難になってしまっている始末。週末はほぼ立ち仕事の私にとって、これは由々しき事態にあります。

でも本当はそんなこんなは言い訳で、実はたんに「さぼってるだけ」。のような気もしてきました。本気でやろうと思えば、どうにか走れるんじゃないのか? と。

そりゃあ、昔は違ったよ。二日酔いだろうと、ブランクがあろうと、気合いだけで10キロでも15キロでも(20キロとなるとちょっと難しいか……?)走りきれたもんさ。

走り終えると、達成感と渇望と新しく生まれた熱い熱が内に残ったね。たまに陸上仲間の友人に皇居ランに誘われりゃあ、ワク・ドキしながら赴き、東京駅のコインロッカーに荷物を急いで詰めこみ、スタートラインで意気揚々とストレッチしていたものだった。

しかし、そんな日々はいつのまにか過ぎ去っていた。

今じゃ二日酔い常態(もとい、状態)ではろくすっぽ走れないし、また、走る気も起こらないし、どうにか走ったとしても、杖を失くした老人のようによれよれよろよろするばかりだし、2年前はぴかぴかだったmizunoのスニーカーにはところどころ穴が空いてて、地に密接するソールはすっかり磨り減り、スニーカーとしての役割をろくすっぽ果たしていない。

それで今月初め。私は一念発起して新しいジョギングシューズを買うためのお金を用意した。

それは履き慣れていたmizunoジョグシューズのバージョンアップ版で、私としてはけっして少なくない金額であったが、そいつの靴ひもをぎゅっと結び直せば、また走れるような気がしたのだった。

しかしこともあろうか、私は財布に忍ばせていたその金を吉祥寺のセレクトショップで見かけたキャメル色のスプリングコート購入に充ててしまったのだ。

ゆえに今、部屋のカーテンレールにはキャメル色のスプリングコートが意気揚々と鎮座ましましている、というかぶらさがっている。そして玄関に購入予定だったmizunoのスニーカーは(もちろん)なく、例によって、私は今日も磨り減って使い物にならなくなったスニーカーを履き、「せめてたくさん歩いとくか……」などと自分に言い聞かせるように、隣町の中華そば店への長い行き帰りウォーキングで自分を慰めている次第。

「走ること」は私にとって、実際的運動であると同時に、いや、それ以上に、精神的な姿勢の象徴なのであった。それがこのところ、よくわかった。

 

己はもう走ることをあきらめてしまったのだろうか? 

 

今、己の頭にあるのは、古い履きつぶしたスニーカーを継続して履き続け、たとえ足が痛くなろうとふくらはぎが真っ赤になろうと、無理にでも走ってみること。しかし、「すっかり履きつぶしたスニーカーでジョギングする」なんて行為は、ど根性ガエル的見地から言えば麗しき所業かもしれないが、身体的/運動的/実際的見地から言ったらまったく褒められぬ行為。なにしろ足が痛むだけで、得られるものは体育会系的実感のみ。それで、また足を痛めてしばらく走れなくなってしまうという元も子もないボーナスまでついてくる。言ってみれば調律の狂った楽器を奏でて悦に入っているようなものです。もう大人だから、そういうことは止めとこう。

 

そういうわけで、僕は昨年から使うことを止めていたクレジットカードを財布に入れ、隣町のなんちゃらスポーツ店まで件のスニーカーを買いに行くことを目論んでいる。そして来月になったら、1人で東京駅に赴き、お洒落なターザン男女たちに混じって、息をぜいぜい言わせながら「こんなはずでは……」とか「まだまだ……」とか言っていたい。言っているだろうか?