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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

新春いっぴ

3月いっぴ。

毎年、「3月いっぴ」には何かしら初志表明を記したい、と思わせるmoodが漂っている気がします。

では、週単位のいっぴである「月曜日」はどうでしょうか。

月曜日には僕の名前とまったき同じ字が使われているのですが、とくにそういう感慨を抱いたことはありません。私は「月曜日だ! 頑張るぞ!」というような前向き人間でない。それは確かです。でも、これからはもう少し月曜日に愛着を持てるようになろう。なにしろ名前と同じ字の曜日なんだから。「月曜日は俺の日だ!」くらいのことを苦笑いしながらでも言ってみようじゃないか。

そんな月曜日的認識に辿り着いたところで、今日の記述は終わらせてしまいたいところですが、「3月いっぴ」について記すつもりだったので、もう少し続けます。

 

遡ること3ヶ月前。

 

今年のお正月は個人的に(よかれあしかれ)なかなか印象に残る年明けでありました。今、そのあたりのことを思い出そうとすると、まるで前世のように遠く感じるのですが。でも昨年行き当たりばったりにつけていた手帳など取り出し、1年前に赴いた飲食店や読んだ本の記述など読んでみると、まるで3ヶ月くらいしか経っていないように感じるから不思議です。

時間は謎です。それは広がったり、伸びたり、縮んだり、親しみやすい笑顔で近くに寄って来たり、けんぺいずくに睨みつけてきたり、突然醒めた目になって離れていったりします。少なくとも、見かけ(数)通りの形をしていないことだけは確かです。

 

何だっけ。そう、3ヶ月前は2016年のいっぴだった。前日(大晦日)に不覚にも深く飲みすぎてしまい、毎年恒例だった深夜の初詣に行けず、何だか物足りない気持ちで目覚め、身体が辛くて再睡眠も出来ず、いささかマゾっぽい心持ちで重たい身体を引きずるようにして南武線谷保駅に向かった。去年、厄払い(前厄だったので)してもらった大国魂神社に詣でるため、ついでに年明け蕎麦をすするために。

 

しかし大国魂神社に辿り着いてみると……何てこった! 駅を下りた時に予想していたどころではない。恐るべき数の人、人、人。それは「長蛇の列」なんて生易しいものじゃなかった。言ってみれば「ウォール・オブ・ピープル」。何しろ人の大波とイカ焼きの煙にいぶされて、最後尾に辿り着くことさえ容易ではない。毎年、地元の雰囲気のよい小ぶりな神社に詣でていたから、元日の「大神社」が生み出す爆発力をすっかり忘れていたのだ。大国魂神社でこれでは、いったい明治神宮などはどんなことになっていたのか?

ようやく参拝客行列最後尾に辿り着いた時、私の足はオートマチックに神社境内とは逆方向、すなわち府中駅を目指してとぼとぼ歩いていた。どうしてだろう? たぶん、下りた駅(府中本町)にとんぼ帰りするのがしゃくだったのだろう。それで府中駅前でかけ蕎麦でもすすろうと思ったのだが、めぼしい店は何処にもなかった。『富士そば』さえもなかった。伊勢丹のレストラン街に行こうとしたら元日閉館していた。さすがの伊勢丹である。

 

結局、府中本町駅前に舞い戻り(実際には松葉杖をついた老人並みの歩行速度で)、おなじみのドトールに入った。二日酔いと両足の疲れですっかり弱っていた私には、うら若き店員さんの固定されたようなスマイルと白い湯気が立ち上るブレンドコーヒーがほとんど天使に施された護摩のように思えた。ジャーマンドッグにかぶりつけるほど二日酔いは回復していなかったからコーヒーだけで済ませた。

結局、そのドトールで年賀状メールの返事を書いたりしているうちに、日が暮れるまで長居してしまった。今年の私はそんな正月を過ごした。色んなことを振り返り、色んなことを決意し、色んなことを忘却した元日であった。

 

でも「新春」という言葉にあるように、きっと真の年明けは今日なのではあるまいか、というような気がさっきからしている。春とは思えないくらい寒いけれど、この低気圧、この光、この澄んだ冷気……これこそがまったき春の息吹であろう。ふきのとうの天ぷらが食べたくなってきた。そして私は決めた。今日が2016年の幕開けである、と。

と、まあ、毎年3月いっぴにはそんなようなことを思って勇んでおります。