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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

限りなく1月めいた10日間の不思議(3)「押し入れブックレビュー」

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たった今気付いたのだが、先日何も考えずに「1月めいた10日間の不思議」などという安易なタイトルをつけてしまっていたが、今はすでにして1/24のお昼なので、今月中に10日ぶんの日記をつけることは不可能なのか……

と、思ったが、たしか1月は31日まであったはずだから、毎日更新していれば、ちょうど31日で10日めの不思議ということになるのだろうか。うん、たぶんそうだ。そういうことにしておこう。(1人納得)

さて、「不思議」と言っても、新年を迎えてからとりたてて不思議なことがあったわけではない。いや、こうして現実世界が未だ厳然と現前していて、昨日おとついと名曲喫茶仕事に従事し、今は押し入れ部屋(1.5畳だが小さな机と椅子はある)でこのような記述をしていることが不思議と言えばまあ、不思議ではあるが。

 

まったくの私事ですが、幼少の頃から、裸電球で埃がちろちろ舞っているのが見えるような狭い場所にいるのがもっとも心落ち着く。三つ子の魂的に、この性質は全く変わっていないようだ。当時は物置部屋に全巻揃っていた絵本や専門書やスヌーピー(正確にはピーナッツ)のコミックを読み漁り、ゲームウォッチをやっていた。そのおかげで、スヌーピーと任天堂には人格を形成するほど強い影響を受けたと言っても過言ではないだろう。そして現在も、押し入れの中で本を読む。疲れたら3DSをやる。疲れたら本を読む……のが私の天井的、もとい、天上的押し入れ時間である。まったく、なんという成長のなさであろう。こんな男がはたして誰に何を与えられるというのか……などと自己嫌悪するのは無意味だからやめよう。

今、僕の傍らには読みかけの(あるいは再読中の)本が4冊積んであります。どうやら出して恥ずかしいような本はなさそうなので、ひとことコメントつけて列挙してみます。

ハックルベリー・フィンの冒険 (講談社文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険 (講談社文庫)

 

この本はしょっちゅう読み返しています。訳本は現在でも各出版社からたくさんさんさん出ていますが、何故か絶版になってしまっているこの翻訳を越える翻訳はないと勝手に思っていて。

訳者は『ライ麦畑でつかまえて』で有名な野崎孝。天才的に絶妙な語り口です。村上春樹はどこかで「『フラニーとゾーイ』のゾーイの口調が関西弁だったら面白い」みたいなことを言っていましたが、このハックルベリーは明らかに東北人。青森出身の訳者は、この作品において初めて故郷の方言を意識的に(あるいは無意識に)翻訳に利用したのではないか、とさえ思えるほどです。ちなみに当ブログの大人気(ウソです)記事「毎日酒を呑むオレが二日酔いにならない秘訣教えたる」

毎晩酒を呑むオレが二日酔いにならない秘訣教えたる - 水と今

は、このハックルベリー・フィンを少々意識しました(などと書くのは野崎御大に失礼かもですが……。

言うまでもなく『トム・ソーヤの冒険』の続編的内容ですが、共通しているのは世界観くらいで、物語も主人公の性格もあちらとはずいぶん違います。比べれば(比べるのも野暮ですが)、僕は圧倒的にこちらの方が好きだし、読んだ回数も比べ物になりません。翻訳の素晴らしさも多分に大きいのですが。

副読本としてこちらもおすすめ。推理小説的視点、あるいは作者マーク・トウェインの過去のトラウマ的観点からこの小説を論じています。この学者さんの文学研究本はどれもぐいぐい読ませてくれます。

謎とき『ハックルベリー・フィンの冒険』―ある未解決殺人事件の深層―(新潮選書)

謎とき『ハックルベリー・フィンの冒険』―ある未解決殺人事件の深層―(新潮選書)

 

 

死の家の記録 (新潮文庫)

死の家の記録 (新潮文庫)

 

これは毎年、本棚から引っ張り出してきて読もう読もうとするのですが、 かれこれ10年近く、最後まで読めたためしがなく。きまって4分の1くらいで放り出してしまう。この翻訳者は『罪と罰』(新潮文庫)も訳していて、こちらはドストエフスキーの中でも1、2を争うほど好きな作品ですが、何故か同じ翻訳者でもこの作品と『未成年』(新潮文庫)はいつになっても読了できません。今年の小説的目標は「ドストエフスキーを全作品読む」にしようかな。それって疲れそう……。

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

 

昨年買ったばかりなのに、3度めに突入しました。すこぶる読みやすいのだが、妙に身につまされる、まとわりついてくるような何かがある。村上御大が訳すだけあって、レイモンド・カーヴァーが長編小説を書いたらこんな感じになるのでは……というような趣きがあります。でも「レイモンド・カーヴァーっぽい趣き」っていったいどういうものだろう? そういえば、今年に入って読んだカーヴァー最期の短編小説作品集『象』は素晴らしかったな。小ぶりだけどいちいち胸に迫ってくるような暗いイロニーがあった。カーヴァーにもダーグ・ソールスターのこの作品にも中年男性の抱く通奏低音的な絶望感とおかしみ(みたいなもの)がふつふつと感じられる……いや、ダメだな、こんなんじゃ。何を言ったことにもなっとらん。これだから本についてなんやかや記すのはイヤなんだ。読まなきゃわかりっこないんだから。

象 (村上春樹翻訳ライブラリー)

象 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

呪術の体験―分離したリアリティ

呪術の体験―分離したリアリティ

 

これはもう何回読んだかわからないくらい読んでる。ああ、いつのまにか「ですます」調が消滅しちまった。まあいっか。

カスタネダのドン・ファンシリーズは10冊くらい出ているが、やはり最初の3冊がもっとも優れていると思うし、実際、夢中になって読んだ(ちなみにこれは2冊め)。ルポタージュ風の体裁を取っているけど、これは完全に小説です。たとえ師であるインディアンのドン・ファンが実在の人物だったとしても。たとえ、カルロス・カスタネダが実際にメキシコの奥地でこのような体験をしたとしても(あるいはしていなかったとしても)。では、「ルポタージュ」と「小説」を分かつものはいったい何か?

それは「文章」である。文章が小説的であれば、それはもう何を書こうと小説なのだ。乱暴な意見だということは無論承知ですが。

この真崎義博という訳者はけっしてテクニカルではない、というか、むしろちょっとつたない感じの訳文なんだけど、カスタネダの書く幻想小説的文章にばっちりハマっていて、この人以外の訳文でカスタネダ本を読むとかなり違和感がある。小説じゃなくなっちゃう。表紙がいかにもニュー・エイジ系で古くさいというか、トンデモ本っぽい感じなのだけど、そこがまたいいのです。表紙を外すと、深緑の思ったより渋い感じの装丁になっていて、それもまたとても良いのです。ところで、このカスタネダシリーズを出版している二見書房って他にどんな本出してるんだろう……検索してみよう。

(かちゃかちゃ)

思ったより、色んな本をまんべんなく出しているな。しかし僕にとっては微妙っっぽい本ばかり……。そういうわけで、僕の部屋にある二見書房の本はたぶんこれからもカスタネダシリーズだけです。

などと、押し入れの中で本についてなんやかや記したところで、そろそろ出て(人はいつかは押し入れから出なければならない……)、台所で素うどんを茹でることにします。のちほど、また。