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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

限りなく1月めいた10日間の不思議(2)「日大芸術学部のこと」

f:id:lovemoon:20160122223149j:plain今日は日本大学芸術学部(以下、日芸)という大学校について書きます。

なぜ日芸? と問われると、答えるのに100字ばかりかかるのですが。

《理由》僕が営んでいる小さな名曲喫茶に、昨今よくいらしてくださる素敵な親子連れさんがおりまして。その娘さんであるHGさんは現在大学受験前であり、第一志望校が日大芸術学部の写真学科と聞き、私事ごとながら、個人的な遠い日の日芸記憶がふつふつ蘇ってきた次第。

 

日芸受験、その苦き思い出 

当時(遥か遥か昔の話)、僕が第一志望だった大学もここ日芸の文芸学科でありました。最初は「文学部であればどこだっていいや」くらいに軽く考えていたのですが、あれこれと調べているうちに、日芸は演劇学科/写真学科/美術学科などあり、文芸もそれら芸術の内に含まれているところがなんだか「ゲーテ的」でいいなあ、きっと若かりし僕はそう思ったのでしょう。文学が日文や海文や哲学などに枝分かれするのではなく、美術や写真や演劇と同列に扱われていることにこの大学が打ち出す、学問と芸術の両義性・双方向性・折合い性(のようなもの)を強く感じたというか。

そういうわけで、俄然この大学で学びたい気持ちが高ぶった。その頃の僕はと言えば、90年代の若人らしく、文学のみならず、音楽、ゲーム、美術、写真、ありとあらゆる事象と文化に興味と好奇心と憧れを抱き、どんなものでも自分の内にめいっぱい!取り込みたい気持ちでいっぱいいっぱいだった。言ってみればエネルギィと好奇心とドキ・ワクにみちた真っすぐで愚かしいいち青年だったわけです。誰にだって、人生で1度はそんなような時期があります。いや、べつになくても良いのですが。 

 

それで、たとえ「文芸学科」じゃなくてもこの日芸なる大学に入ってしまいさえすれば、後から転部だってできるな……などと小賢しく(いや、あるいは日芸の思う壷だったのか)考えた僕は、母や教師に無理を言って、文芸科以外の学科も2学科受験させてもらうことにしました(現在はどうなのか知りませんが、当時は学科ごとに受験日が異なったので、受験料させ払えばそんなことが可能だったのです)。具体的に言うと「文芸学科」「写真学科」「放送学科」の3学科を受験しました。

しかしながら、結果のみ言うと、僕は放送学科以外は1次試験で落ちてしまったのです。放送学科は1次試験をパスし、2次試験の小論文も通って(お題は「風」について思うところを書きなさい、というものでした)、さあ、残るは面接のみ! しかし、こともあろうか、この面接でしくじっちまった。まあ、当時の自分はいささか対人恐怖症的なところが多分にあったので、ここでしくじるのは予想できぬ事態ではなかったのですが、それでもけっこう、いや、かなりショック受けました。こんなことなら面接対策本でも読みこんでおけば良かった……。

きっと僕はここ日芸のある「江古田」という地に通っているうちに(たぶん10回以上赴いたように思います)、この土地とキャンパスがすっかり好きになり、自分は4年間ここに通うのだと、合格する前から心のどこかで決意し、胸を躍らせていたのでしょう。だから学校前に貼られた合格者発表に自分の受験番号が見つけられなかった日(当時はネットによる合格発表などなかったのです)、真実がっかりしたことを昨日のようによく憶えています。

余談というか後日談ですが、この日芸3科の受験が終わった後、傷心だった僕は受験に対して相当に投げやりになっていたのですが、他に受けた大学は何処もすんなり受かっていました。日芸以外の大学にはそほれど強いモチベーションを持っていなかったので、これは意外というか拍子抜けでした。あるいは、投げやりになっていたことが良く働いたのかもしれません。合格通知をもらったW大学(芸術学部)とAO大学(教育学部)とK大学(文学部)のどれかを3日以内に選ばなくてはならなかったのですが、それほど迷わずK大学に決めました。その選択が正しかったのかどうかはわかりません。もし正しくなかったとしても、とりあえず、あの大学があってこその現在の自分という気もするので、そうでなくてもそういうことにしておきましょう。

 

話を日芸に戻します。

軽く検索してみたところ、現在の日芸の風景は僕が受験した頃とはずいぶんと変わっているようです。建物はところどころ新しく、綺麗な小劇場まであるらしい。

僕が受験した20年数年以上前は、江古田駅から商店街を歩いて、校門を抜けてまっすぐ突っ切ると、古風かつ広々とした校舎が東西南北シンメトリーに開けていて、そのどれもがモダンな設計者によって造られた「古き良き建造物」といった趣きでした。モダンではあるけれど「これみよがし」な感じではなくて、階段を上がり下りしているうちにだんだん身体に馴染んでくるような、どこかほっとするような味のある造りでした。あれら校舎群は今も残っているのだろうか。残っていてほしいな。

 

「あの頃」の象徴としての日芸

日芸受験日のお昼、天井高いだだっぴろい食堂で、校舎を眺めながら母が作ってくれたお弁当を食べ、紙コップのコーヒーを飲んだ午後のことを今でもよく憶えています。僕は黒のキャスケットを被り、紺色ダッフルコートに赤いマフラーなど巻いて、高円寺の古着屋で買ったミリタリーっぽいオリーブグリーンのリュックに本やらCDプレイヤーやら、何やかや未来っぽい気持ちをたっぷり詰めこんでいました。

日芸の向かいには出来たばかりの中古CD屋さんがあって、試験日のたびにそこで何枚も洋楽CDを買い求め、聴きながら帰ったっけ。2月の空気はいつも冷え冷えとしていて、空はぶ厚い灰色の雲に覆われていて、でも、心はこれから自分に否応なしに降り注いでくるであろう、流星群のような、隕石群のような、未確認飛行物体群のような、得体の知れぬ未来に慄きながらも、頰っぺたは焚き火にくべられた薪の中心のように赤々と高揚しておりました。風の冷たさも、煙草の煙たさも、若者たちの色とりどりの上着も、全てがあまりにも若々しく、生々しく、やるせなく感じた江古田駅への道のり。そういうのがなかなか忘れらんない。

 

それから20年の歳月を跨いで、何かしらの縁で僕が営む名曲喫茶に来てくれたHGさん。どうか第一志望であるこの日芸に合格し、楽しく、心やすく、充実した大学生活4年間を送れますよう! 心から祈っています。