水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

限りなく12月めいた10日間の不思議(6日め)

f:id:lovemoon:20150109130635j:plain

今日は祝日なので、早起きして名曲喫茶を開けていました。ワルター・ギーゼキングという老練ピアニストが遺したモーツァルト「ピアノ・ソナタ全集」。林檎飴のような色したレコードをかたっぱしから出し、針を落としていた。モーツァルトのピアノ・ソナタしか聴きたくないような日だった。そういう日もある。

 

午後3時頃、目に映らないくらい細かく、冷たい雨が降り始めた。一般的に、雨は飲食店(とくに喫茶店)の客足をおよそ6割減らすと言われる。じっさい、当店も今日は相当に閑々だった。私は日常的には行為よりも無為に傾きがちな人間だが、店仕事における閑々状態はごく苦手だ。いつでもたくさんのお客さんに居てほしいし、いつでもせっせと手を動かしていたい。でも、居ないものは仕方ない。閑にまかせて、こだわりいっぱいの焙煎家によるコーヒーに関する本(マガジンハウス)と人気新宿駅ナカカフェを営む女性の記した文庫本(ちくま文庫)を立ったまま読みふけっていた。好き嫌いはともかく、どちらもとても飲食的パワーにみちみちた本だった。

「飲食」という仕事に心底燃えている人の話や本は面白いし、説得力あるし、そこに食べに(飲みに)行きたいって気持ちにさせてくれるし、自分でも何か新しいことを始めてみようっていう気にさせてくれる。なんのかんの言っても、僕は「飲食」という職業がわりと好きだ。飲食店を営む才気も体力も資本もろくすっぽ持ち合わせていなかったのだが、何の因果か大学を卒業して早々と会社を辞め、20代の後半からこれまで15年近く、母が長く続けてきた小さな店に携わることとなった。そうして店を通じて、たくさんのワクワクと出会いを得てきたように思う。そして4年前、同店舗を使った名曲喫茶を始めてから、考えることはほとんどクラシック音楽と名曲喫茶(を含む飲食)のことばかりになっていた。

 

そうして今、心から自分が好きな店って何処だろう? 改めてそう考えてみると、これがなかなか思いつかない。新宿の駅ナカ立ち飲みカフェ、神田の老舗蕎麦屋、渋谷ライオン……そのくらいだろうか。

 

現存しない店のほうが数を挙げることができそうだ。新宿伊勢丹の2階に少なくとも20年くらい前まで存在していたイタリア直営の『バビントン・ティー・ルーム』という名のカフェ(母とよく待ち合わせた。清潔で華やかな内装、特注のジノリの食器、お茶もケーキも食事も母にとっては理想的だったらしい)。国立・ブランコ通りに歴史的に長く存在していた『邪宗門』という老舗喫茶(6年前になくなるまで、毎日のように行っていた。そこに足を踏み入れるとリアルタイムにSP音源の時代に戻れた)。同じく国立・富士見通りにあった『ジュピター』という名曲喫茶(物心つく前から母に連れていかれた僕にとって最初の名曲喫茶。ここがなかったら自分でも名曲喫茶をやろうなどとは考えなかったはずだ)。二子玉川の多摩川沿いにあった『Peace』というイタリアン(多摩川と田園都市線を一望できる素晴らしいロケーションだった)。

f:id:lovemoon:20151224152628j:plain

これらの店はもう存在しないが、僕は相当に強い愛着を抱いていたように思う。もしそこで突然死してもそれなりに納得できたかもしれない(ゆらめき霊魂になって、「ま、死んだのがあそこで良かったな……」とか思っていたかもしれない)。
  

……さて、何の話をしてたんだっけ? いささか酔っぱらってしまった。おまけに朝早かったからすこぶる眠たい。

そうだ、当名曲喫茶が閑々だったという話。こんな日にはモーツァルトのピアノ・ソナタがよく合う。ワルター・ギーゼキングの弾くピアノは、日曜日の午前中っぽい心持ちにさせてくれる。ギーゼキングは言うまでもなく、僕にとって特別なピアニストだ。歴史的にも重要かつ格別だろう。上手い/下手を抜きにして——上手い下手なんて、どうだっていい——記録された演奏が、或る時代と或る在り方を完璧に体現し、消えることのない星として光り輝いている。このようなピアニストはそうはいない。いや、けっこういるか。でも、限られた時代の範囲においてはギーゼキングが突出しているように思う。その見解は間違っているかもしれないが。

 

少なくとも僕はこれまでギーゼキングの演奏に実際的に助けられてきたし、これからも助けてもらうことになるはずだ。僕はずいぶんたくさんの古(いにしえ)のピアニスト(もちろんヴァイオリニスト、オーケストラにも)命を救われてきた。それは認めなきゃならない。そういうわけで、今日は古の演奏家と、かつて愛した、現在は存在しないお店たち、そして現在も存在しているお店たち、周りにいてくれる全ての存在に礼を言いながら眠ります。明日はクリスマス・イブです。