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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

限りなく12月めいた10日間の不思議(4日め)

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これ(写真)は何ですか? はい、隣町の食堂で頂いたおでん(大根/蒟蒻/竹輪)と冷酒(烈)にあります。午前8時に起きてから、夕方にこの美味しい夕食に辿り着くまでには、それなりの経過があった。

 

ふだん、月曜日は僕にとっての休日的曜日である。しかし今日は起き抜けから相当に気が塞いでいた。昨日/一昨日は自らが営む名曲喫茶で心やすい生演奏を聴かせてもらったというのに……三鷹のコンサートホールでもジャン・フィリップ・コラールの弾くフォーレ、ペーター・シュミードル/金木博幸/佐々木秋子の奏でるベートーヴェン3重奏を母の古い友人の御縁で聴けた。思い返してみると、今月は目の前で奏でられたリアルタイムの音楽からたくさん元気をもらったように思う。

そうだ、今月もたくさん酒を頂き、たくさん音楽を頂いた。でもまだ足りないものがある。それは何か? 

 

それは「走行」なのであります。呑み続けること、記し続けること、走り続けることくらいしか芸のない私にとって、ここんとこの極度の走行不足は、かなり由々しき事態なのです(「由々しき」の使い方はこれで正しいのだろうか?)。しかし、ここんとこの私はその由々しさから目を背けておりました。今日はやめとこ、店が忙しかったし……明日は人と会う約束があるし……今日は酔っぱらっているし……などと走ることからとことん背を向け、後ろめたい気持ちを抱えながらもスノッブな苦笑いを浮かべつつ立ちすくんで(あるいは座り込んで)いたのでした。

思い起こせば30代の頃は二日酔い明けでもタイムウォッチ片手に井の頭公園や皇居をひた走っていたっけ。そういう負けず嫌いさと向こう見ずさがあった。でもこの1年、ろくすっぽ走れていない。それは認めなきゃならない。大学時代からのジョギング仲間にもずいぶん水をあけられてしまった(きっと彼は今晩も涼しい顔で皇居ランしていることだろう)。

 

おまけに最近は数キロ走ると、翌日、両足がハムの丸木を前にしたカラスのようにぎゃあぎゃあ悲鳴を上げている。これが日常的に走っていないからの衰えなのか、加齢による衰えなのかはわからない。ただとにかく、走ることが圧倒的に、致命的に、不可逆的に足らないことは確かだ。この世界には、無理に走らなくても人生的にも健康的にもノー・プロブレムな方が殆どと思うが(凄い設備のジムだってあちこちにありますし)、日常的に、規定量、外をひた走っていないとどこまでもどこまでもどこまでもダウン・バイ・ロウ(気鬱)になっていくラン・アディクトな人種がいる。僕はそういう人間だ。たとえ、ランナーとしては相当に落ちこぼれだとしても。それが幸福なことなのか不幸なことなのかはわからない。スヌーピーやテレビゲームやクラシック音楽の好みと一緒で、こういうのは多分に三つ子の魂的な体質であろう。とにかく定期的に(というか日常的に)走っていないとダメダメだ。身体がばらんばらんになるような感じするまでひた走っていないと、私は私らしさを失ってしまう。

 

しかしながら、ここんとこの私にとって、日々走ることは背後に流れていく情景のように自分からどんどん遠ざかっているようだ。って、さっきから同じことばかり記しているな。私の明日は久方ぶりに走れるだけ走ってみるか。10キロ越えられたらバンバンザイ。冷酒をすすりながら心からそう思った。あ、明後日(水曜日)も祝日(天皇誕生日)で名曲喫茶を開けております。きっと足をがくがくさせながら、レコードに針を落とし、コーヒーを落としていると思われます。よろしくどうぞ。