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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

熱海道中記(再載)其の二

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どうにか5時間8000円という、有り難くて涙が出る休憩を与えてくださった(皮肉です、言うまでもなく)旅館「M」にて。

「M」は熱海にある旅館では、かなり老舗のようだ。置かれている調度品や家具を見れば、働いている人たちと言葉を交わせば、ナチュラルに埃っぽい息を吸いこんでみれば、瞬時にそれが了解される。館内銭湯でひび割れた浴槽の縁を眺めながら1時間ばかりの長湯を終え、入浴後、さりげなく周りの部屋を覗いてみたのだが、ほとんど、いや、すべからく空部屋のようであった。かなり広いし、クラシックホテルっぽいし、海からも駅からも近いのに、人が入ってきそうな気配は微塵もない。シーズンオフだからか?
まあ、どうせ数時間したら出るんだから、ぼくがそんなことを追求したってしかたあるまい。
 
1人きりで使うには勿体ないくらいだだっ広い和室に佇ずむと、軽い眩暈がこみあげてくる。とにかく眠い、留保なく眠い。眠気覚ましに障子を開け放ち、窓も開けてみる。潮騒の音、しない。塩混じりの風、吹いてない。数人の子供たちが海辺ではしゃいでいるであろう声、それだけがする。遠くからコダマのように聴こえてくる。わかってくれるよね? いかにも海辺の砂浜で子供が追っかけっこしてそうな、そういう匿名的で普遍的な声、声、声 by アガタ。

そういえば、旅館に来る途中に横切った熱海サンビーチ、ほとんど人の姿は見えなかった。12年前はそれなりに賑わっていたように記憶しているのだが。
ひょっとして、今や熱海に訪れる外来者って、ほとんどいないんじゃなかろうか? これまでの経緯を考えると、どうしてもそう思ってしまう。だって、熱海で唯一混みあっていたのは、駅前のJR運営のバカでかいホテルとドトールくらいだったもの。そのホテルは全国からやって来た「老人の会」あるいは会社の「慰労会」で、ぼくみたいなしがない旅行者なんて及びじゃないし、エキナカドトールは地元の住民がほとんどって感じしたな。

 

しかしですね、自分と同じような旅人(観光客というべきか)の姿がろくすっぽ見えないっていうのは、この手の一人旅においては、そう悪くないものです。

2年前にした1人旅は平日の四国(高松と小豆島)だったけど、あれも見事なくらい人の姿がなかった。どうやら、ぼくは遠くに出かけるとなると、無意識的に人の少ないところに来てしまう性分のようです。孤立癖があるのかも。もし、これが箱根とか軽井沢とか日光だったら、どんなに楽しかったとしても、気分は善かれあしかれ全然違っていただろう。孤独を感じることはなくとも、自分の中に在る本来的な「青さ」から目をそらし続けていたことだろう。そうなのだ、ぼくは今日、徹底的に一人になる必要があった。1日だけでいいから。そして、青い海を徹底的に眺め続ける必要があった。だからたぶんきっと、これでいい(と自己肯定)。

 

窓を開け放ったまま椅子の上でまどろんでいると、やっぱり冷えたビールが飲みたくなってきた(これだから呑み助は困る)。そして、冷蔵庫には冷えたビールがたっぷり入っている。でも、あの女将の調子じゃ、1本いくらするかわかったもんじゃないぞ。「兄ちゃん、ビールは——(この引き延ばしが怖い)

1本5000円じゃけん」とか言われたらどうする。

ああ、こんなことならさっきコンビニで買っておけばよかった。しかし、もうコンビニまで戻る気力も体力もまったく残っていなかったぼくは、おもむろに冷蔵庫を開け、何も考えずに「一番搾り」の瓶の栓を栓抜きで抜き、グラスにどぼどと注いで一気飲みした。ああ、旨い。バタンキューを先延ばしにした挙句、風呂上がりにまどろみながら飲むビール以上に美味しいものなんて、ほかにないよな。

そしていつのまにか、眠りに落ちていた。

 

そしていつのまにか目覚める。

窓の外の陽はまだ落ちていない。携帯電話をたぐり寄せ、時間を見る。午後3時。ビールを飲み出した時は午前11時をまわっていたはずだから、たぶん、まだ3時間くらいしか眠ってないはずだ。でも、頭はわりにすっきりしている。意を決して、起き上がってみる。起き上がってみると、さっきまでの自分がいかに「リビング・デッド」状態だったかがよくわかる。寝不足状態の自分は本当に危険だ。どんな保証もできない。セブンイレブンで万引きしたり、旅館の女将をいきなり罵倒したとしても、ぼくは、少なくとも自分自身に対してまったく驚かない。そんなことにならないためにも、よく眠る必要がある。

2度寝するか……? ないな。それよりも、もっかい熱い湯に浸かるべきだろう。

思った通り、浴場にはやっぱり誰もいない。再び独占風呂。誰もいない大浴場は素敵だ。というか、8千円出しても1泊させてくれないんだから、これくらいのことはしておかないと。というわけで、浴場では好き勝手やらせてもらった(といっても、長湯に入っただけですが)。それで、かなり疲労は抜けたっぽい。

 

入浴後、部屋の冷蔵庫に入れておいたキャベツとさつまいもの煮物を食べる。母がつくった昨晩の夕食の残りもの。旅先で食べると素朴な味は心にまで染み入る。さらに自分で作ってきた小さいピーナッツバターサンドウイッチが残っていたので、それも食べようとしたものの、ひからびていたので断念。
使用料2千円(ぼくはけっこう根に持つタイプである)の布団を綺麗に畳み、さっさと支度し、階段を降り、フロントで女将さんに8000円渡して旅館を出ようとする。と、
「お客さん――ビール1本飲まれてますなあ」
「あ、そっか忘れてました(忘れてないけど)。いくらですか?」
「じゃあ……」
「……」
「800円」
胸をなで下ろしつつ、800円を渡し、「お世話様でした」。そう言って旅館「M」を出た。

 

さあ、日はどんどん落ちかけている……何をするべきだろう? いや、するべきことなんて何もないのか。明日の朝まで、俺は1本の根無し草に過ぎないんだから。何をしたっていいんです。でも、まだ海に行く気にも酒を呑む気にもなれなかった。
今1番必要なものは……コーヒー。昨日のドトールのブルーマウンテンが飲みたい。それにしても、ぼくは喫茶店の息子に生まれたということもあって、旅先では必ずといって良いほどカフェや喫茶店に入ってみるのだが、熱海では(ぼくの目に入った範囲では)入りたくなるような店って見当たらなかった。事前にリサーチする暇なんてなかったし、携帯はmovaだし、しゃあない。

そういうわけで、再びドトール熱海駅店へ足を向ける。2時間後の自分すらまるでイメージできないままに……。

(続きます!)