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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

熱海道中記(再載)其の一

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先週末、1人きりで熱海に赴いた。

仕事の後、急に「ここではないどこか」に行きたい(でもどこに行きたいのかはわからない)激しい衝動に駆られ、午前5時に中央線に飛び乗った。

そうして、座ってうたた寝してるうちに終点・東京駅に着いていた。早いものだ。降りて、エキナカのコンビニで携帯歯ブラシとプラカップ(何かと役立つ)とペットボトルの水を買い求め、「さて、どうしよう?」思いつつウロウロフラフラしてたら、新幹線の乗り場が見えてきた。

「この際だから、新幹線に乗ってみるか。」 

それで、軽井沢に行こうかな。高いだろうから宿には泊まれないけど、野宿すれば良いし、いつか行くかもしれないあの『万平ホテル』を下見しておくのも悪い考えではあるまい。

そう思い、さて切符を買おうとしたら、これがどうしてけっこう高い(いくらだったかは忘れてしまった)。さすが、長野県。
迷い、途方に暮れていると、ふと、前の晩、ぼくが働いていた某カフェバーFで飲んでいたカップルが「ね、こないだの熱海、良かったね」とかなんとか言っていたのを思い出した。「じゃあ、熱海行こうかな」。まったくもってテキトーである。

 

ちなみに、熱海には1度行ったことがあります。12年くらい前ですが。だから、あの土地のだいたいの空気感みたいなものは覚えているような、ほとんど忘れてしまっているような。ま、着けばわかるだろ。たぶん。
新幹線車内では「いないだろうな。」と思っていた古典的な売り子さんがちゃんといて、何やら美味しそうなものをぎゅうぎゅう詰めた冷蔵庫付きカートをゆっくりと滑らせつつ通りかかった。呼び止め、缶ビール(サッポロ黒ラベル)を買う。

ビールを呑みながら、何かを考えていたように思う。何を考えていたんだろう? 思い出せない。眠らなかった朝にビールを飲みながら考えていたことは、「あ、そうか!」ってな具合に1人で盛り上がっても、翌日になると忘れてしまっていることしょっちゅうだ。何かに書きつけておくべきだった。これからは、早朝に酒を呑む時はメモ帳片手に呑むとしよう。それはともかく、熱海行きの新幹線の中、気分はわりに良かったように思う。仕事明けだったから相当に眠かったのはたしかだが。

 

 

約50分後、午前8時半に熱海駅に到着。熱海駅はずいぶん変わった……のか? よくわからない。判断に困る感じ。とりあえず、12年前はなかったはずのエキナカドトールが否応なしに目に入った。コーヒーの良い香りに誘われてすかさず入り、本日のコーヒー(ブルーマウンテン)をテイクアウト。リュックから無糖ピーナッツバターを挟んだロールパンを取り出し、外で食べる。ドトールの「本日のコーヒー」はいつ飲んでもたいてい外さない。スターバックスとはえらい違い。ブルーマウンテンらしい酸味もコクも感じなかったけど、1杯250円のブルーマウンテンに対して、いったい誰がケチをつけられるというのか?

 
ドトールでの朝食を終える。まったく、いったい俺は何時間起きているつもりなのか? かれこれ30時間は経っている。さっさと旅館なりビジネスホテルなりに入って、昼過ぎまで眠らせてもらわなければなるまい……そう思い、駅前で目に付いた適当な旅館に入ってみた。ちゃんと探せば、熱海の何処かにそれなりに安くてそれなりにステキな旅館くらいあるんじゃないか? 熱海ではそんな期待は持たないほうがいい。それは12年前から重々承知している。駅から近くて、部屋がそれなりにキレイで、海が見えて、まずい食事は最初からいらないから5千円くらいで泊まれりゃそれでいいって(投げやりぎみ)。

しかし、そんな考えは、いや、そんな考えすらも甘ちゃんであることを今回、思い知らさせれたのだった。どこの旅館も「チェックインは午後2時まで不可!」「宿泊費は1万円以上!」

ふざけるな、こちとら、今すぐに露天風呂に入って、乾き始めたコンタクトレンズを外して、ぱりっとした布団に倒れ込みたいんよ、刺し身定食はいらないから、4千円まけてくれ、そんなことを言っても百戦錬磨の女将たちが首を振らないことはわかっていた。

だから、「あ、じゃあ、いいです。もしかしたら、またあとでくるかもしれません……」などと言って、踵を返し、熱海サンビーチ近くまで重たい足を引きずる。どこかも少し、あと少しで良いからマシな旅館を探すために。しかし、どこを回っても全然ダメである。だんだん、眠気と熱さ(熱海はすでに小春日和の暖かさであった)で頭が朦朧としてくる。足取りはすでにふらふらしている。


「ラチあかん。」(と、小さく呟く)


海岸沿いのセブン・イレブンに入ってみるも、明らかに要らないものを手に取ったり、探していたコンタクトレンズ保存液を見つけるのに店内を15分もうろつき回ったりしてて、われながら「ヤバイ感じ」である。どうにか保存液と割りばし(ジップロックに入れてきたキャベツとさつまいもの煮物用)を1本ゲットし、また海岸沿いの大通りをかなりわびしい気分で歩く。歩いている途中、ふと見覚えのある小道があった。何も考えずに入り、石造りの階段を上がると、明らかに既視感のある旅館がそびえ立っていた……。

 

「ごめんください!」とぼく。

 

すぐに和服を着た、かなり賢そうな顔つきの小柄な女将が階段から降りてきた。

 

女将、ぼくの姿を見ると、いぶかしげに、「御兄さん……何か?」
ぼくは間髪入れずに言った、「今すぐ、ここで寝かせてもらえますか。食事はいりませんので」。
「素泊まりってことですか」
「そういうことになるんですかね。とにかくすぐに寝る必要があるんです。あと、できれば熱いお風呂も」
「そしたら――あんた15000円になりますがな」
「え」
「食事付きなら――(この引き延ばしが怖い)18000円」
「あの、休憩とか、そういうのはないんですか? 夕方まで寝かせてくれればすぐ出ますので」
「休憩は1時間1800円になりますわ」
「じゃ、5時間で出るから7000円にしてもらえません?」とぼく。

 

女将、しばし考えこむ。「……少々お待ちください」言い残し、階段の横にある個室に消え、しばらくすると、海千山千、このような交渉はお手のもの、といった風情の大柄の女将を連れて再び戻ってきた。

 

大柄の女将曰く、「兄さん、あんた、布団使いますかね?」

 

「そりゃ、もちろん」と(いささか怯えながら)ぼく。
「そしたら、布団代2000円別途に頂きますんで」
ぼくはややこみあげてきた怒りを抑えつつ言った。「布団が別途料金? そんなのってありえないでしょう。もういいです、他をあたってみますから」そう言って背中を向けようとすると、


「待ちんしゃい!」

 

ぼくは否応なしに振り返った。
女将いわく、「あんたな――まけても8000円ですわ」
「じゃあ、それでお願いします」(それ以上交渉する気力がなかった)
「先にお風呂に行ってきんしゃい」
「はい、そうします……」

 

その旅館のさほど広くもない入浴場には、ひとっこひとりいなかった。温泉は無く、水道の湯が引かれた水たまりのように小さな掘り浴槽がひとつあるだけの贅沢な(と言うべきか)空間。そこで熱い湯に浸かりながら、とにもかくにもここまで来れて良かった、生きてて良かった、ちょっとだけそう思ったのだった。

(続きます!)