水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

「天下市」という名の…

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御祭りでありました。縁(えにし)感じつつ、飲み(呑み)、食い歩き、練り歩く。それが「冥利に尽きる」1日。その冥利はきっと、谷保天満宮(という名の神社)に直接に結びついていて、数多の喜びはそこで滑らかに回収されていくことでしょう。

 

さて、それについて何か思うところはあるか? と自分にちょっと問うてみると、わりにあるような気ぃする。ホントは今日、出店が出ている間に大通りをぐるっと回ろうかな? そんな気持ちがちらちらと心をよぎった。なにしろ、この「天下市」は幼少の頃から「勝手知ったる」とまでは言わないが、長いこと馴染み深い行事なので。

 

僕が小学生だった時分は、図工の時間に自分で削り、色を塗った下手っぴいな木刀片手に「七頭舞(ななずまい)」なる、古来より伝承される(しかし全国的にはあまり知られていないであろう)集団舞踊を歩行者天国のど真ん中で「だん!」と打ち鳴らされる太鼓の音をバックに踊った(通っていた小学校の伝統行事だったのだ。何故かは知りません)。

中学生だった時分は、純粋か不純かは知らないが、とにかく「異性交流」みたいなことはこの天下市に局地的に結びついていた。女子(T子ちゃん、А紀ちゃん、M代ちゃん、みんな元気だろうか?)が金魚すくいしたり、たこ焼きを頬張ったり、焼きそばをすすっている赤らんだその横顔をちらちらと眺めやりながら、空気銃片手に欲しいプラモデルを狙って身体を前にうんと乗り出し、ばん!撃ち放ち……「やったあ! 倒れたぞ!」と叫ぶと、出店のあんちゃんが「坊や、撃った時、境界線5センチ乗り出してたー!」などと強引に無効化され、仕方なしに、器用な手先を使って「かたぬき」(ガムのような素材の板から針を使って型を抜き出す)に精を出すも、「だめだめ、ここヒビ入ってるー(虫眼鏡片手に)」とやはり無効化され、涙目になって「りんごあめ」頬張りながら、醤油を塗って焼かれた「もろこし」にかぶりつきながら家路に着いたあの頃がまるで前世のように感じる……。

 

だが、数十年経った今でも、この「天下市」はかつての「天下市」とほぼ同じ様相を呈しているように見得る。このご時世、それは驚異的な、奇跡的な、まこと慶賀すべき祝祭日ではあるまいか。売ってるお面がドラえもんからジバニャンに変わろうと、射的の商品がFC(ファミコン)ソフトから3DSソフトに変わろうと、並んだブロマイドが南野陽子や荻野目洋子から……や、もう昔話は止しませう。

 

とにかく「祭り」とはドンガラのように、時が流れ、放り込むものごとが変わっても、その器、本質はまるで変わっちゃいないんである。たぶん、きっと。そのことは、日々加速度的に歳を重ねていく僕を(どちらかといえば)安心させてくれるようだ。

今日、名曲喫茶で閑な時間、窓の外をぼんやりと眺めていた。その時、強く感じた。いつものように通行人はブックオフに吸いこまれ、水風船や金魚片手に手を繋いだカップルは笑顔で「今、この時」に在り、老人は前方2メートルよりもずっと、遥か彼方を諦念と微笑混じりの表情で見つめていた。赤ん坊も、老いも、若きも、その狭間に居る(私のような)者も、とにもかくにも、今は「ここ」にいる。というか、いつだってここにいるっきゃない。この限定。この刹那。この永遠を宿した、そして死に向かってまっすぐどんどん行進する無数の煌めき。たった今、この瞬間、居ない君がここに居てくれたら凄くいいのに。って思っちゃったりする。I wish you could've been here!