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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

天ぷらとかけ蕎麦がともにあればいい

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今日の夕飯は出先の吉祥寺にて。久方ぶりに赴いた地下のお蕎麦屋さんで、芋天とたまね(ぎ)天。かけ蕎麦とビールも頂く。僕は麺類がかくべつに好きでして、ご飯なしで、週5日麺類続きでも心がふつふつと喜ぶほどです。そして、この世界中に溢れる麺類なるものの中でも「蕎麦」はとくべつな位置にどっかと腰を据えているように思います。

さて、どんなふうにとくべつなのだろう? 

端的に申しますと、それは「ハレ」ってことでしょうか。雨の日、曇りの日よりも晴れている日に欲します。心的にも、天気的にも。そして、できればお酒を付けたくなります。中華そばやうどんはたいてい単体で頂きたいものですが。(個人的には背の高いワイングラスが似合いそうなスパゲッティ類も、それほどお酒と合わないように思っています。)

蕎麦食前には適度に冷えたビール、そして蕎麦とともには常温、または燗された御酒や蕎麦焼酎が好ましい。今日はアサヒ「熟撰」(小瓶)を呑みました。衣の薄い天ぷらとドライなビールはよう合います。それは認めなきゃならない。

 

そして、蕎麦をすすりながら思う。たしかに天ぷらはここ1番。しかし、自分にとって、もっとも自分らしいかけ蕎麦、そう、あの店で供されるかけ蕎麦にどうしても思いを馳せてしまう。目の前にあるかけ蕎麦をすすりながら、ここにはないかけ蕎麦に思いを馳せるのはいささか(いや、かなり)心苦しい。それは、どうしても叶わぬ恋に似ている。生理的に、どうにもしようがない嗜好。この心はオフィーリアのそれに似ている。そのかけ蕎麦は「神田」なる地に今もきっと居る。今すぐに会いに行きたい、と思う。心が先走る。しかし、その距離は吉祥寺〜神田間の実際の距離よりもずっとずっとずっと離れている。そこには目には見えぬ壁がある。簡単には跨げない高い敷居がある。危険なレーザービームが四方八方に飛び交っている。

決意なしには、そこに赴くことはできやしない。もし赴くなら、簡単には戻って来れないってことを或る程度覚悟しなきゃならない。僕にとって、神田と神保町はそういう場所だ。地名に「神」が付いていることも幾分関係しているのかも知れない。これが浅草だったら、も少し融通無碍な、も少し楽観的な心持ちで赴くことができるだろう。浅草に着いたら、『並木の薮(なみきのやぶ)』にまっすぐに足が向かうだろう。幼少の頃、初めて蕎麦の味に目覚めた店だ。しかし、そこについては後述(またいつか行く日まで)。

いささか間の抜けた(それがほっとさせてくれるのですが)かけ蕎麦を食べ終え、思う。

明日は木曜。1週間は月曜日と火曜日と水曜日と木曜日と金曜日と土曜日と日曜日で成ってゐる。木曜は、何故だか心がオートマチックに落ち着く曜日だ。この心の落ち着きを、揚げたての天ぷらをそっと口に含む時のように、じっと味わっていたいものだ。死が玉ねぎ天ぷらのようにほの甘く、水っぽく、ほろ苦いものであったら良いなどと、思っちゃったりして。おやすみりん。