水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

五嶋みどりの演奏を「体験」した

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まだ「興奮冷めやらぬ」と言った状態なので、簡潔に書きます。

 

今日、五嶋みどりの生演奏を初めて聴いた。楽曲はショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77」。

僕は今日の日を、彼女の演奏を、NHKホールの空気を、きっと生涯忘れることはないだろう。そのくらい凄まじいものだった。と言うのもいささか空しく感じてしまうくらい、凄まじいものだった。

遠目で見ると、あまりに小柄で、あまりに首の曲がった五嶋みどり(綺麗な模様のワンピースを着ていた)がゆっくりと壇上に上がり、一呼吸置いてから弾き始めた瞬間——そこがNHKホールであること、それがショスタコーヴィチの楽曲であること、彼女がヴァイオリンを弾いていること、全てがいっぺんに吹き飛んだ。

さらには、それが「演奏」であることも(自分の内で)すっかり意味を成さなくなってしまった。彼女の演奏は空間をねじ曲げ、位相を変え、時間軸をすっかり無効にした。そこに喜怒哀楽はない。人間的自我もない。現実的時間性もない。僕がどうにか感じていたのは、幽玄の中に灯った聖性(のようなもの)だけだったように思う。

もちろん、彼女の圧倒的な演奏をしっかと支え、際立たせたN響と指揮者パーヴォ・ヤルヴィの力量も間違いなく素晴らしかったはずだ。でも、この「ヴァイオリン協奏曲第1番」が流れていた、地上時間にして約40分——NHKホールは完全に「ぶっとんで」いたはずだ。誰もが陶然としていたはずだ。「はずだ」が3度も続くのは、演奏中、僕の意識は現実から完全に遊離していたはずだからだ。

演奏が終わった時(それは来るべき「瞬間」としてやって来た)、我々聴衆は夢から覚めたように現実(的時間)に引き戻された。我々はそのギャップを埋めようとするかのように大声で叫び、壇上に火花のような拍手を送り続けた。彼女のヴァイオリンは此の世と彼の世を接続する「橋」だった。僕はその橋が取り払われてしまったことを、いささか哀しく思いながら手を叩き続けるほかなかった。

 

帰り道。今日の五嶋みどりのヴァイオリンのことを、もう少し時間が経ったらもう少し冷静に考えなければいけないと思った。でも、無理かもしれない。

今日の演奏会に誘ってくれた母に本当にありがとう! おやすみなさい。

www.nhkso.or.jp