水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

イェルク・デームスのゴールドベルク変奏曲を聴いて

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土曜日。すなわち名曲喫茶勤務日であった。しかし、(自宅を出る前は気づかなかったが)今日は「ゴールドベルク変奏曲日和」でもあったらしい。

早朝、毎週のように行われる1人ドタバタ支度劇場の末(朝に相当に弱いのです……)、出かけようとすると、玄関のドアノブにレコード盤が1枚入ったビニール袋が固くくくりつけてあった。

「ったく、何だよ、こちとら急いでるってのに……」

などと呟きながら、歩きながら、中を覗いてみると、そこにはイェルク・デームスの演奏する「ゴールドベルク変奏曲(J.S.バッハ)」アナログ盤が入っていた。と或る人物(私にとって馴染み深い親類)が私に託したものに違いない。そういえば、デームスのゴールドベルクはこれまで聴いたことなかったな……。

 

「なあ、お前さんはこのゴールドベルクを聴いたことがあるんか?(黙って聴けや)」といった、クラシック大先輩からの提言であろうか? あるいは、「なあ、この演奏は、まあ、クラシック界のそこここに屹立するゴールドベルク演奏の中ではかなり、いや、相当にマイナーな演奏かもしれんけど、いちおう、聴いとき。けっこう心温まるで」というような、謙虚、かつコレクター心にみちみちた暖かいメッセージだろうか?

 

私には判断がつかなかった。どうにも。

 

ともあれ、僕は『ゴールドベルク変奏曲』に関しては、それなりにたくさんの演奏を聴いてきた。グレン・グールド、アンドレイ・ガブリーロフ、ウィルヘルム・ケンプ、ピーター・ゼルキン、マレイ・ペライア、キース・ジャレット、ワンダ・ランドフスカ……たぶんもっとある。それぞれに固有の世界観があり、内在する熱情があり、フィギュールがあり、それぞれのパッションがある。個々の演奏家がそれぞれに「盤」として吹きこみ、後世に遺そうとするだけの必然的で触知的で覇気にみちたsomethingがたしかにある。それらが自分なりにしっかりと得心できるまで(回数の問題ではないが、各演奏家で少なくとも200回ずつくらい)聴いてきた。

 

そして今日の午後、私が細々と営む名曲喫茶で、このイェルク・デームスの弾く『ゴールドベルク変奏曲』をターンテーブルに載せ、針を落とし、聴いた。お客さんが入れ替わる時期を見計らいながら計3回も聴いた(こんなことはあまりない)。

ありていに言えば、それは他にうまい言葉が見つからないような素敵な演奏であり、実感に溢れたゴールドベルク体験であった。しかし、それは、どんな風に素晴らしい演奏であり体験だったのか? 

簡単には言えっこない。ナチュラルで、自然で(あ、同じこと言ってるや)、優しくて、穏やかで、濃やかで、必然にみちみちた演奏だった。ああ、足りん。

この世界には古今東西、多くの素晴らしい『ゴールドベルク』が存在する。でも、こんな『ゴールドベルク』はこれまでに1度も聴いたことがなかった。そんな演奏。それは控えめに言っても、小さな、そして巨大な驚きと喜びに溢れていた。も少し突っ込んで言うならば、第30変奏から締めくくりの「アリア」へ繋がる時のシームレス、かつ融通無碍なタッチ。そこにイェルク・デームスの「神髄」を聴いたように思う。その時、心底驚いたのだった(それでつい3回も……)。

その一瞬に『ゴールドベルク変奏曲』という宇宙の帰結と自然な始まりを感じた。暖炉な前で炎のゆらぎをみつめているような、パーソナルな懐かしみをもたしてくれた。こんな心持ちにさせてくれたイェルク・デームスというピアニストに心から感謝しないわけにはいかない。あ、それからドアノブにこれをかけておいてくれた御仁にも。And Thanks For Goldberg Varietions by Bach : )