水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

私の30代に

昼間、母がビックカメラに買い物があるというので、思わず、「じゃあ、ついてって、誕プレにゲームソフトでも買ってもらおっかな」などと口走ってしまった。きっと30年前の誕生日も同じようなことを母に言っていたはずだ。私はそういう40男である。

ともあれ、私の30代は今、まさに(19日・午前3時半に)終わらんとしている。それについて何か思うところはあるか? と自分に問うてみると、じつは思ったよりもたくさんあって、自分でもびっくりしている。19歳から20歳になる時よりも、29歳から30歳になる時よりも、確実にどっしり、たっぷりとした「サムシング・スペシャル」があるような気がする。それは何か? どんなふうに特別なのか? それは年月の集積に拠るものなのか? あるいは「30代」という10年間は、何かそれまでとは質量ともに違った思い出や、とくべつな経験を内包しているのか?

そんな自分の声にマジメに答えるとしたら、「ぜんぶ。」と答えざるを得ない。すなわち、誰にとっても「30代」とは、幼児期や10代や20代や30代一切合切を包括している10年である。だから特別、とも言える。でも、自分の「30代」をそれまでの他10年と独立した期間として考えてみても、この10年は、じつにかくべつに味わい深い10年であったように思う。ありゃ、自分でも何言ってるのかよくわからんくなってきた(笑)。

だけど、10年、10年って、どうしてそんなふうに区切って総括しようとするの?(そんな君丿声が聴こえた気がした)

それは何だか、クセみたいなものです。きっと私は20歳の時も、30歳の時も、同じように左半分の数字の変化に拘り、いちいち意識していたのでしょう。でも、やっぱり今現在の感触は、20歳、30歳とは何だか、確実に違っていて。

何やら、「何かが終わった」という感じがしみじみあります。そして「新たに始まる」という感じもないことはありません。なんて、面白みのない、中年的所感でしょうか。そして私の心が、30代の思い出(なるもの)を、私の意思を幾ばくか超えたところで、懐かしんだり、俯瞰したりしてるのが判る。それら思い出は、なんだかとても生々しく、「じゅくじゅく」している。

でも、具体的な情景はそれほど浮かんでこない。関わった人や、催しや、赴いた場所の思い出。毎日同じように過ごした日々と習慣の集積。それらが巨大な記憶となって、深いもやのように心を包みこんでいる。僕にとって、30代は20代と地続きのものではなかったようだ。それは初めての不安を伴い、初めての疲れを伴い、初めての喜びを伴い、初めての痛みを伴い、初めての後悔を伴い、初めての愉悦を伴い、初めての出会いと別れの感覚をたっぷりともたらしてくれた。

だけど(いや、それゆえに)僕は30代という時間に強く感謝している。ある意味では、10歳以前よりも、10代よりも、20代よりも。しつこいやね。でも、この感謝っぽい感覚をなるべく忘れたくない。30代の自分の身に起こったことごとの記憶を生々しいまま保持しておきたい。それはできない、と思いきや、きっとできる、気ぃする。10歳の時に買ってもらったゲームソフトや、18歳のあの日や、21歳のあの瞬間や、26歳のあの場面や感情を今もピンポイントでしっかと掴んでいるように。僕にはそれができる。というか、そのくらいのことしかできない。掴んだまま、何かにさよならし、何かにこんにちは、する。する!

そうして来るべき40代のことは、明日、新宿ベルクに行って考えるとしよう。そして今、誕生日を前にして思うのは、母と猫、そして自分の目の前に(時々、しょっちゅう、いつも)いてくれる人に、そしていない人にありがとうって言いたい。いつものように。ありがとう。どういたしまして。こちらこそ。今後ともこのような40男をどうぞよろしくお願いします。