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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

眠る前の夜はやさし

午前3時すぎ。正直、今はこれを記すよりも、本が読みたい気分。具体的に言うと、先日、一念奮起して(頁数が多く、値段もかなり高いので)購入したフィッツジェラルド『夜はやさし』(作品社)を自分でも驚くほどの集中力で読んでいたい。そうしていつのまにか、朝が白んでいるのが理想的。

夜はやさし

夜はやさし

 

はたして、夜は優しいのだろうか? たしかに、真っ昼間と比べたら、深夜は心にとって優しい時刻(午前3時頃をフィッツジェラルドは「魂の辺境の刻」と呼んでいた、と村上春樹が書いていた記憶がある)に思える。しかし、この小説の「Tender is The Night」とは、そのような意味ではないのか。「優しさとは、夜(そのもの)だ。」というようなニュアンスかもしれない。まあ、そのあたりは、読み終えてみないことには(あるいは読み終えても)わからないのだが。

このところ、うまく本が読めない。暑いから。かもしれない。まとまった時間がない。そんな気もするし、本をすらすら読むには脳が「滑らか読書方面」に向かっていないように感じる。「読むこと」にかんしては、僕は自分の力をけっこう(自分なりに)誇っているのだが(いかんせん、その他の能力が低すぎるので)。

しかし、うまく読めようと読めまいと、僕は本を読んでいる時間がとりわけ好きである。ゲームしたり、何か記したり、猫と戯れたり、お酒を飲んだり、コーヒー豆を挽いたり、クラシック音楽を聴いている時間もとくべつに好きだが、本を読んでいる時間はそれらが全てべつものの喜びを伴うように、やはり全然違った喜悦をくれる。

自分のペースで、好きな本を集中して読む行為と時間そのものが好きなのだと思う。劇場であれ、dvdであれ、映画鑑賞ではこうはいかない(こっちは立ち止まれず、フィルムの速度に合わせてついていくしかない)。ゆえに、強く集中して読めるような懐の深い本に対して、強く、深く有り難みを感じる。それはどんな本か? いわゆる海外文学(古典も新しいのも。むろん全てではないが)は、かねてより僕の読書魂を強く深く惹きつけてきた。どうしてだろう。たぶん、幼少期から思春期にかけて、そんなような本を強く欲してきたからだ。いや、だから、どうして欲してきたのか? わからない。(がくっ)

とにもかくにもそういうわけで、岩波文庫と新潮文庫と早川文庫があれば、きっと読書精神的にはかなり安泰だ。できれば創元社とピーナッツ・ブックス(スヌーピーのコミック)にも本棚に居てほしいが。そして、自室以外にも、本を落ち着いて読める場所があるとじつにありがたい。「ありがたい。」ぐらいじゃ、言い足りないくらいありがたい。それはつまり、喫茶店とかカフェということになるのだが。そうだ、国立の『邪宗門』は読書には本当に理想的な喫茶店だった。読書に理想的な喫茶店ということは、すなわち、理想的な喫茶店ということだ。僕はあの店以外で、まともに本を読めた例が無い。気ぃする。はたして、僕が細々と営んでいる名曲喫茶で、お客さんは落ち着いて読書できるのだろうか? できるようにしたいな。さて、そろそろ押し入れの中で『夜はやさし』読んでから眠ろう。おやすみなさい。