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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

ひばり

金曜日。

明日は名曲喫茶番だから、いささか寝不足だけど、早めに起きた。

窓を開けると、完全な、完全に、完全の春がやって来ている。それはもう、あまりに明白で、もっとも本来的な冬の寒さを懐かしむこともできないくらい、確固としてそこにいる。

春に、そこここに咲き誇っている桜に、飛び回っている鳥たちに文句をつけることはできない。受け入れるっきゃない。受け入れて、慈しむことができたら、愉しむことができたら、遊ぶことができたらなお良い。

昨日、ハイドン弦楽四重奏『ひばり』を大音量で聴いていた。控えめに言って、凄まじい音楽である。いったい、どうしたらこんなに、自然界そのもののような、調和と瑞々しさとを、4本の弦楽器で、虚飾なく、公正に、ごく美しく生み出すことができるのだろう。ハイドンにはいつだって全面降伏である。とくに、こんな風に春の気のみちみちた午前には。なまぬるい気体(のようなもの)になってしまいたくなる。なりたければ、いつかなれるかもしれない。

なろう! なろう! 明日なろう! 明日はひばりになろう!

はあ。春はしょっちゅう溜め息が漏れます、ね。

『ムーンライト』を観た

レイトショーで『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス監督)を観てきた。

観賞後、感想を誰かに話したりせず、胸の内に静かに留めておきたいような類いの映画がまれにある。素敵な作品だし、少なからず心打たれたし、多くの人に観てほしいと思う。でも、それについて何も言いたくない気持ちは、少しずつ確かなものになっていく。やがて心に硬い錠が下りる。その映画のことを誰かと語らう機会は(おそらく)ない。

この作品がアカデミー賞を受賞したことの意義や、俳優や音楽の素晴らしさ、印象的なシーンなど、語ろうと思えば語れるだろう。でも、声高に誉めそやしたりできない。「絶対観たほうがいいよ」なんて絶対言えない。誰かに感想を訊かれても、「うん、よかったよね。」くらいしか言えそうもない。そういう映画だった。

白い雪(カール・フィルチュの音楽)

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ルーマニアはトランシルバニア生まれのカール・フィルチュ。「作曲家」と呼ぶのも「ピアニスト」と呼ぶのもあまりしっくり来ないのは、彼があまりに早く夭折したことと無関係ではないだろう。でも、そのようなこちらの違和感とは無関係に、彼は偉大な「音楽家」としてクラシックの歴史に今も昔も変わることなく屹立しているように思う。

彼の師であるフレデリック・ショパンは「なんということだ! 私の曲をろくに聴いてもいないのに、この子は誰よりも私の音楽を理解している」と驚嘆し、フランツ・リストは後年、「もしあの若者が歩み出していたら、私は退かなければならなかっただろう」と溜め息混じりに漏らしたという。しかし、フィルチュは巨匠からの期待や人々からの賛辞などまるで意に介さず(たぶん)、14歳の若さで足早にこの世界から立ち去った。肺結核であった。

我々が現在耳にすることができるのは、彼が生前に残した10数曲のピアノ曲(あるいは何処かにもっと眠っているのかもしれない)。それら楽曲はショパンを彷彿とさせるものもあれば、ショパンの敬愛したアイルランドの音楽家ジョン・フィールドの夜想曲たちを喚起させることもある。不思議に(と言うべきか)、チャイコフスキー的「北の情景」も見え隠れする。ともあれ、10代半ばの少年が書いた楽曲とは思えないほどその音楽的クオリティはきわめて高い。

でも、僕が彼の曲を聴いていてもっとも打たれるのは、「無垢な諦念」とも言うべき精神がそのまま旋律になったかのような、誰も触れていない真っ白い雪のような(それはいつしかすっかり溶け去ることを約束されている)、柔らかな美しさ。その1曲1曲にいち音楽家としての「オリジナリティ」が結晶となって立ち顕れている。ショパンの影響も、若すぎる夭折も、世評も一切合切無関係な場所に。

土曜日の名曲喫茶。よくいらっしゃる方が「かけてほしい」と持ってきてくださった『カール・フィルチュの世界』。ピアニストは萩原千代さん。初聴きだったが、じつに「きりっ」としたタッチで、一音一音が心の襞に沁み入ってくるような忘れ難い演奏。今でも、カール・フィルチュの生み出した音楽が僕の心のかなり奥まった場所で、小さくも、雪の結晶のようにクリアな象を結んでいる。

コーヒーとクラシックと雨の総量

昨日から長雨が降っていて、今朝になってもなかなか小止みにならない。だからか、妙な冷えこみ具合だ。普段、食卓で暖房器具を点けることはあまりないのだけど、今日はサラダを食べながら思わず電気ストーブに手を伸ばした。

サラダ(サニーレタス、キュウリ、トマト、エシャロット)を平らげ、おでん(大根、ごぼう、厚揚げ、焼き豆腐)を平らげ、今、名曲喫茶に向かう前に。4月のいっぴだから何かしら(何でもいい)記しておきたかったけど、帰宅したら多分どっぷり疲れていて、何も記せないこと請け合いだ。週末だもも。

しかし長雨降り続く冷たい土曜日の朝に、何が記せるものか?

今、熱い濃いコーヒーが無性に飲みたい。が、ここにはコーヒーミルはあっても豆がない。店に行けば新しい、手付かずの豆が用意してある(商売道具の準備には余念がない)。なのに、なぜここにないのか。5年前、「おいしいコーヒーを出す名曲喫茶」をうたった店を始めてから、私はじょじょに自宅でコーヒーを飲まなくなっていった。以前は少なくとも1日2杯は必ず飲んでいたものだが。

なぜ飲まなくなったか? 端的に言って、コーヒーを淹れることが仕事になったからだろう。同じことはクラシックにも言える。以前に比べて、自室でクラシックを聴かなくなった。寝しなにクラシックのCDをかけながら床に着く。そのくらい。

どうしてかというと、クラシックは土/日に店で1日10時間ほぼぶっつづけで聴くから。つまり週に20時間、月に80時間ちょっと(祝日含む)。これだけ聴けばじゅうぶんであろうか。いや、本当はもっと聴きたい。

さて、同じことはコーヒーについても言える。私は土/日にコーヒーカップ約10杯コーヒーを飲む(味見含む)。平日は現在でも週に3、4杯はなじみの喫茶店やコーヒーチェーンでコーヒーを飲むから、均してみると、以前と変わらずちゃんと1日2杯は飲んでいることになる。

つまり、クラシックもコーヒーも摂取している総量は今でもほとんど変わっていないわけだ。2日に凝縮されているというだけで。

サミュエル・ベケットの有名戯曲『ゴドーを待ちながら』に、「世界の涙の総量はけっして変わらない。何処かで誰かが泣き始めたら、何処かで誰かが泣きやんでいる」という台詞がある(うろ覚えなので、正確ではありません)。有名だろうとそうでなかろうと、ひときわ好きな台詞だ。こうして窓の外ではしつこく雨が降り続けているけど、そのぶん、何処かで降っていた雨は止み、春らしい濃まやかな青空が広がっていることだろう。何処でかは知らないけど。

私事だが、かつてサミュエル・ベケットの存在と上記の戯曲を教えてくれた人は、10年前、私にデロンギのコーヒーミルをプレゼントしてくれた。私はそのコーヒーミルをずいぶん長いこと、ほぼ毎日、自宅の台所で使ってきた。今や豆も均一に挽けなくなってしまったが、先日引っぱり出して、綿棒とブラシを使って大掃除してみたところ、まだ使えそうで嬉しく思った。明日、私はそのミルで挽いたコーヒー豆を、象印のコーヒーメイカーにセットしてそれほどおいしくないコーヒーを飲んで悦に入っているかもわからない。

ああ、例によってとりとめもない話になっちゃった。行って参ります!

『たまら・び』最新号

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明日は、4月いっぴ。明日は、名曲喫茶為事日。

明日は……そうだ、雑誌『たまら・び』が書店に並ぶ日。

国立特集号。近辺の素敵な人/店/催しがたくさん紹介されています。地元の見知った店たち、見慣れた場所たち、懐かしい人たちも、本を通してみると、じつに新鮮に目に映る。思い出したり、心の隅で改めてエールを送ったり、久しぶりに行ってみようかな、って思ったりする。

私事ですが、母の営んできたカフェ『flowers』の宣伝にかこつけて、私がささやかに営む名曲喫茶と、謹製カラヤンコンピの宣伝も(ちゃっかり)載せて頂きました。編集のSさんとライターのYさんに感謝、改めて。

『たまら・び』は、多摩好きの方にとって有用かつ・愉しみの種を受け取れるであろう素敵な雑誌。ちなみに私もバックナンバーを遡って購読しています。住み慣れていたはずの多摩にこんなに面白そうな町や催しがあったのか。と、毎号新鮮な驚き。魅力的なローカル誌(或る地域に特化した雑誌)って、この移り変わり激しいご時世において、新鮮だし、昔よりもいっそう必要だなって強く思うのです。

4月になったら

https://www.instagram.com/p/BRc3DF_AxAe/

4月が「すぐそこ」まで近づいてきている。日数的に言うならばあと2日。

4月になったら、ひと回り感をひしひしと感じるだろう。いつものように。

3月は終わりと始まりが交差する唯一の月。常人らしく、私はそう感じる。

1月も2月も3月も飛ぶ矢の速度で過ぎていった。いつもよりずっと速く。

4月になったら、何処か水の畔に赴いて、水の流れと自分を同期させたい。

4月の雲を眺めやりながら、白猫の姿を白い空に大きく描く。そうしよう。

牧神の午後の午後

日曜日。渋谷『名曲喫茶 ライオン』に長く勤めていたWさんが来店してくれる。


Wさんは僕よりもずっと年下だけど、この業界(と言うべきか)においてはずっと先輩なので、いつでも少しばかり緊張が走る。自分の振る舞いとか、ターンテーブルに載せるレコードとか、店内の通奏低音ムードとか、そういった名曲喫茶的ことごとに対していつになく意識してしまう。

彼女は来る時はたいてい何かしらの音源を携えてくるので、注文を伺う時、こちらも無言で手を差し出し、CDを1枚(ないし2枚)受け取る。その日は『牧神の午後への前奏曲』ピアノ連弾。

クレジットを見ると演奏者たちは寡聞にして知らなかったが、かけてみるとこれが途方もなく素晴らしい演奏で、厨房の中でしばし陶然としていたのだった。
『牧神の午後への前奏曲』はそれはもちろん見事な楽曲だけど、個人的には日々聴きたくなるような曲ではなかったし、そのピアノ演奏など想像したこともなかった。でも、そのつつましくも濃まやかな演奏と霧の中で響いてくるような音像は私の心に直截に響いてきて、思わず度肝を抜かれたのだあった。今でもその旋律が耳の奥で小さく、でも確かに響いてくるようだ。

ふと、この5年間でWさんが教えてくれた音楽を思い出す。セルジュ・チェリビダッケ指揮のブルックナー交響曲、ウィルヘルム・ケンプの弾くモーツァルト、ワルター・ギーゼキングの弾くメンデルスゾーン無言歌集……その他にもWさんは数多くの音源を私に紹介してくれ、それらの音楽はことごとく、今でも深いところで私と結びついていると思う。

ずいぶん前に、『ライオン』でWさんや、彼女の先輩であるライオンの古参スタッフMさん(この人とはいっぺん会っただけだが)の選曲に耳を傾け、それからしばらく雑談した時、名曲喫茶為事にも明らかに「矜持」と「センス」があり、こういうのってちょっとかなわないよな……と強く感じた。彼らに感じるのは圧倒的な知識だけではない。言うなれば、クラシック音楽に対する「広い視座」と貪欲なまでの飽くなき探求心というか。
僕もかれこれ5年近く「名曲喫茶」という為事に従事しているわけだから、「クラシック」なるものを自分なりに年々こよなく愛しているつもりだが、逆立ちしても彼らにはある部分で敵わない気がしてしまう(争うものではない、とは承知の上で)。

しかしながら僕は僕であって、これからも僕なりの矜持を持って、自らに吹いてくる風に導かれるままにクラシックと、名曲喫茶と関わっていく。やっぱり、それっきゃないよね。と、清新な「牧神の午後への前奏曲」を聴きながら改めて背筋伸ばした。
写真はWさんに頂いた手土産チューリップ。春の息吹を最高に感じる。