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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

雨の喫茶店とブラームス「雨の歌」

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《雨の喫茶店》

押し入れの中にいるので、定かではないのですが、どうやら小雨がぱらぱら降っているようです。「雨は、飲食店の来客率を5〜6割落とす」と一般に言われています。当方、かれこれ4年以上喫茶を営んでおりますが、そのようなmoodは「実感」としても「数字」としても確かに拭い去れません。

でも、「雨だからこそ喫茶店に足が向く」という奇特な方々も——数としてそれほど多くはないが——いらっしゃるようです。実を申しますと、私も生活における大部分においてそういった人間の1人です。とくに、真夏のキラキラサンサンと輝くお天道さまが出ている時は、今居るような暗く狭い押し入れに足が向いてしまうことが多い。でも雨が降っていて、空がどんよりしていると、ガゼン外出欲が高まってきます。こういうのって「天の邪鬼」かな? ひねくれているのかも? などと思っていたのですが、陰陽における「陽」の気が強い人はこういう性癖があるという話を聞きました。

え、私が……「陽」? 私がですか??とやや自意識過剰的にロウバイしてしまいましたが、どうやら表面的な明るさ/暗さとはそれほど関係ない、とも聞きました。陰/陽とはもっと生来的で、気質というよりは体質に近いものであると。でも、気質と体質って、それほど遠くない質にも思えるのだけど……何の話だっけ(逸脱みを感じる)。

とにもかくにも、言いたいことはこれです。かの名曲喫茶は、晴れの日も雨の日も曇りの日も雪の日も心地よい——そのように感じて頂ければ喫茶冥利に尽きまくります。

 

《雨の歌》

思えば、今日はずいぶんと忙しい1日だった。昨日(土曜日)はかなり閑だったので、のんびり構えていたのだが、シャッターを開けてみると、「てんやわんや」とまでは言わないものの、自分的にはコーヒー・カンタータにも勝るドタバタ劇が繰り広げられた。忙しいと、心を静かに保って店仕事することはやっぱりなかなか難しい。そんな時、ブラームスヴァイオリンソナタ「第1番ト長調」をターンテーブルに載せることがけっこうある。

所謂「雨の歌」。正直、私はこの曲が昔からあまり好きではなかった。や、苦手、とまで言ってしまってもいいかもしれない。何と言うか、私がクラシック音楽に「求めない」要素が殆ど全て入っているような曲だと感じる。でも、「だからこそ」と言うべきか——よく聴いてきた。

あるいは誰かが「この曲はまったきラブソングだ。この曲を書いた時、ブラームスは儚い恋心を抱いていたのだ」と言っても、私はこの曲をそんな風には聴けそうもない。「クララ・シューマンを想って書かれた恋慕の曲」というようなキャッチーかつストレートな認識をされることも多いようだが、そういう先入観を持ってきくと、いささかウェットに響く。

個人的には、秋の夜長、風が木々の葉を揺らしている音に耳を澄ませているような気分で聴く——そういうのが好ましい曲だ。あるいは雨が降っている時、「ぴちぴちちゃぷちゃぷ」(©北原白秋)っぽい気分で。すると、奇妙なほど素直に爛々とした心持ちになれる時がある。きっと私にとって、この曲はストレートな歓びの歌なのだろう。あまりに直接的で直情的な。あの大好きな「4つのバラード」と同じ作曲者なのだ……と得心できるようになるのには随分と時間がかかったように思う。

ヴァイオリニストはクリスチャン・フェラスがいい。擦り切れたレコードならなおよし。

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「明日から」という名の……

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明日から、私がささやかに営む名曲喫茶『月草』営業3連チャン(月曜日は祝日のため)です。それについて何か記しておきたいことはあるか? と問われると、たしかにそれなりにたっぷりとあるようです。ですが、今日はこのまま倒れこむようにして眠るとします。何しろ、現在はすこぶる酔っぱらっているし、午前中の準備にずいぶんと時間がかかるので……。おやすりみりん。

「十六夜の月(イザヨイノツキ)」を飲んでキリンビールの凄さを改めて感じた

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久しぶりだった長い店仕事の帰り道、駅前のローソンに常飲している日本酒を買いに行ったら、品切れていた。で、代わりにキリンの新しいビール「十六夜の月」を買った。

私は昨日このビールに出会うまで、「十六夜」と書いて「いざよい」と読むことを寡聞にしてまったく知らなかったし(強引な当て字だと思った)、「十六夜」が秋の季語であることも、古語「猶予(いざよ)」から来ていることも知らなかった。同じ季節もの限定商品である「秋味」と比べて、なんと凝ったネーミングであろうか。そして、私の手ぶれiPhone写真ではいささか判り辛いかもしれないが、全く見事なデザインである。

3年前の登場時はまだまだ諸手を挙げて迎え入れられたとは言い難い『グランドキリン』から始まった、この「ふとこしゃれ瓶シリーズ」(と私が勝手に命名した。「太くて洒落た小瓶」の意)の企画力と、畳みかけるようなリリーススピードにはしょっちゅう驚かされるが、今度のはいつになく凄い。ビール棚の前に立つと、手に取る前から手に取らせる輝きを力強く放っている。「この限定された期間内にこの最高の商品を買ってくれ!」というような、まっとうかつ真っ直ぐな商売心がびしびし伝わってくるようだ。

そうしてキリンの思惑通り、秋の月夜の晩、ビール好きの老若男女(私も)が、仕事帰りにコンビニに立ち寄ってこのビールを見つけて手に取り、そっとカゴに入れている風景が鮮やかに浮かび上がってくる。売り手が、そのようなくっきりした消費者の購買ヴィジョンを練りに練って商品化したであろうことが、あざとさではなく、清々しくさえ感じさせる。

 

今を遡ること2年前の2014年、キリンは「クラフト(手工芸品)風ビール」(風、と記すのは、実際には麒麟の商品は「非」手工芸品だからだ)に力を入れるにあたって、比類なき『よなよなエール』で名を馳せた長野の新鋭ビール会社ヤッホープルーイング社と業務提携を結んだことを発表し、我々ビールファンを驚かせた。双方の会社の思惑は理解できるが、何しろ熾烈な市場、いや戦場、「ビール業界」。そんなイージーな試みがはたしてうまくいくものか?と我々はきっと眉をひそめていたはずだ。

でも、少なくともこの1年の間に精力的にリリースされた、多種多様なキリン商品を見ていると、キリンはヤッホー社の瑞々しいアトモスフィアを見事に咀嚼し、洗練させ、定着させることに成功していることを認めないわけにはいかない。「老舗ビールメーカーが時流に乗ろうとして、若ぶっている」というようなマイナスイメージは周到に回避され、ヤッホー社の持つ縦横無尽のアイデアとセンス、そしてキリンのあまりにも巨大な開発力を見事に商品に結びつけ、旧態依然とした国産ビールに背を向け、未だ見ぬクラフトビールを好んで飲むような洒落たビールファンが否応なしに手に取ってしまうような、魅力的な商品を矢継ぎ早に市場に送り込んでくるキリンは、堂々たる独走状態と言って良いだろう。売り上げなどは知らないから断言はできないけれど、この挑戦的かつ攻めまくりの姿勢は日本の大手ビール会社としては唯一無二に映る。さすがキリン、やはりキリン。と言わざるを得ない。

 『十六夜の月』、肝心の味について。

ビールという飲みものは、冷たいグラスにゆっくりと注いでぐいと飲むのが旨いと根強く信じられているし、私自身もそのようにして飲むことが少なくないが、この「ふとこ瓶」シリーズは、買った帰りにおもむろに栓をぱかっと開けて、そのままグイ飲みするのがもっとも美味しい飲み方であるように思う。そして、それはキリンも推奨する飲み方であろう。何しろ、絶妙な大きさの飲み口が「今すぐ飲んでくれないか」と懇願しているような形をしているし、このシリーズの個性的なビールの味わいは「いかにも、少しぬるくなったくらいが飲み頃」というような妙味だからだ。とくにこの『十六夜の月』のような上面醗酵系(I.P.A)は、きんきんに冷えた状態ではそのふくよかで複雑な旨みをうまく味わいきれないように思う。

しかし、ビールはグラスに注いで飲んでみないことには、結ばない像があることも確かであるように思う。なので、私はこのシリーズを飲む際、なるべく一度はグラスに注いでみることを心がけている。今日も帰り道に蓋をぱかっと開けて半分飲んで、残り半分は自室でちびグラスに空けて飲むつもりだった。

しかし、今日は無理であった。

長い労働と湿っぽい気候で喉が渇いていたこともあるし、また、あまりにも飲みやすい味わいだったこともあり、ものの3分で飲み干してしまった。ゆえに、ビールの色みさえ確認できなかった。ただ、所謂上面醗酵系の濃い色ではなくて、薄い金色がかった色味ではないかと想像する。濃い色合いのペールエールでお馴染みのカラメル風味が微塵も感じられず、一陣の爽やかな風が草原に吹き抜けていく……というような透明感ある味わいだったからだ。しかし、これは月夜の夜に、グラスに注いでもっかい飲まねばなるまい……まったくキリンの思うつぼである。

『救い出される』を読んで(ふっと思った海外文学翻訳事情)

 

救い出される (新潮文庫)

救い出される (新潮文庫)

 

こんばんは。また暗く狭い押し入れの中に広がる漆黒の闇の中に戻ってきました。

先程、先日ちょっと触れたジェイムズ・ディッキーさんの長編小説『救い出される』を読み終えました。村上春樹氏と柴田元幸氏の解説によると、この作品は『わが心の川』というタイトルを、村上御大が今回の再版にあたって新潮社に提言した結果、『救い出される』に変わったそうで。つまり翻訳は以前のまま、タイトルのみ村上御大が付け直したということなのでしょう。実際、読み終えてみると、『わが心の川』などという前時代的なタイトルよりも『救い出される』の方が、ずっとストレートで原作タイトル(Deliverance)に忠実なことは確かですし、御大のピックアップがなければけっして再版されることのなかったであろう「埋もれていた1冊」であることを考えれば妥当な判断でしょう。

ですが、正直、翻訳者以外の人間(編集者であれ選本者であれ)がタイトルを付け替えてしまうというのは、どうなのか……といささか首をひねってしまったことも事実です。サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』チャンドラー『長いお別れ』などは言うに及ばず、新訳の機会にタイトルも一新されるのは当然のこと。しかし、今作の翻訳者(坂本雅之氏。ホイットマン、エマソン、ソローなどのアメリカ詩人・小説家の著作を精力的に訳しておられる)が故人だったらともかく、まだご存命のようだし、この改題に気をわるくされたりしなかったのだろうか……と、要らぬ心配をしてしまったことも事実です。あるいは、村上御大と柴田先生にピックアップしてもらい、「村上柴田翻訳堂」という今旬な企画に選出され、今作が何十年かぶりに日の目を見るだけでも僥倖であり、感謝こそすれ憤慨したりはしないのだろうか……どうでしょう。わかりません。

もし僕が翻訳者だったら、「イツキさん、あの、これ、訳は経年劣化していないようなのでこのまま出させて頂きますが、タイトルだけは村上さんがちょっとピンとこないとのことでしたので、『救い出される』というタイトルを付けて頂きましたので、ご了解よろしくですっ」などと、にべもない口調で言われたら、わりと複雑な気分になるような気がします。ううむ、私なりに思うところあって(と坂本氏の「あとがき」には書かれている)『わが心の川』とつけたのだがな……。と顔を曇らせるかもしれません。正直なところ。

『わが心の川』。たしかに、いかにも古色蒼然としたタイトルではあります。だけどそれなら、「イツキさん、これ、タイトルだけちょっとアウトオブデイトですので、現代に合わせて別のタイトルに変えてもらえませんか? あ、できれば、原作タイトルに近い感じだと助かりますです」などと、申し訳なさそうな笑顔で頼まれたら、「ふむ、たしかにそうだよな」って感じで、気分を害することなく、前向きに新タイトルを考えるような気がします。

 

で、僕が翻訳者だったらどんなタイトルにするか? きっと、迷わずに『救われ』というタイトルにするような気がします。J.ディッキー『救われ』。なんだかR.D.レインの『結ぼれ』みたいだが、それよりもずっとひねりも可笑しみもありません。それにしても『救い出される』か……。何だか「救命隊に命からがら救助された」みたいな光景が先ず浮かんでしまいました。まあ、実際に命からがら救い出されたところもないではないのですが、主人公が長い道程を自力で乗り越え、川から出た印象のほうがずっと強いので。ただ、俯瞰っぽい視線で思い返してみると彼らは「自力で川から抜け出した」のではなくて、やはり「救い出された」のかもしれません。巨大で強大な見えざる力によって。そこには口にはけっして出されないある種の「信仰心」「篤心」のようなものも感じられます。

まあ、改題についてこれ以上考えるのは止めましょう。実際、『救い出される』の方が若い読者は手に取りやすいでしょうし、その内容はページを繰る手がうまく止められないほどハラ・ドキ、しかも村上御大が書いていたように「たんなる冒険小説じゃない」ことがひしひしと伝わってくるようなエナジーとポエジー溢れる大作なのですから。中盤以降の展開はあまりにもハラ・ドキすぎてしばらく読み返したくありませんが、きっと再読は避けられないことでしょう。

 

ワタクシゴト的余談。私は昔から、長い小説を一気に読むのが(もちろんそれだけの時間が許されている時に限られるのだが)ほとんど唯一の「特技」みたいなものなのですが、このところ、読書をずいぶんと怠っていたので、いささか今作に「入りこむ」のに時間がかかりました。読むスピードも昔よりずっと落ちているのを感じて一寸焦りました(一番早かったのは中学生の頃でした)。走ることも読むことも書くこともコーヒーを淹れることも、日々鍛練していないと(あるいは習慣的に行っていないと)、どんどん鈍っていきます。そういうこともあって、ここんとこ、この「押し入れ記述」みたいのを続けているところもあるのやもしれません。昔はぐうぐう眠りこけていても、ぐらぐら酔っぱらっていても、毎日知らないうちにブログが更新されていたのですが、今はそういうことは滅多に起こりません。だから、酔っぱらう前に、眠りこける前に、心が沈みこんで押し入れの中でつっぷすることしかできない……といった状態になる前に、自らを「救い出す」必要があるようです。それでは、明日も人生頑張りましょう。おやすみなさーい。

天国からちょっと出てみる

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こんばんは。今晩は8日ぶりに、押し入れではない場所——自室の机の上——で記しています。

この自室もまったくもって狭いのですが、あの押し入れの中に比べれば、ずっと明るくて、広くて、空気が良い、とまでは言わないまでも、少なくとも「こもっていない」ハレの場所です。だからかな、なんだか、気恥ずかしいような心持ちです。

 

押し入れともこの机の上とも無関係である冒頭の写真は、某ベーカリーカフェで食べたポテトサンドイッチとコーヒー。見ためはたいへん地味ですが、僕好みの滋味深い味なのでしょっちゅう買い求めています。好みのコーヒーとサンドイッチが食べられる有り難いお店があると人生がずっと快適になります。

 

さて、今日も当ブログをしゃにむに更新するにあたって、小さなモバイルノートPC(あまり使わない)でぱたぱた記しているのですが、なんというか、じつに味気ないです。やっぱり僕は暗い場所で大きなモニターを見据えて、無骨なキーボードをがしがし叩いているのが性に合っているようだ。(勝手に叩いてな、という君丿声が聴こえた気がした……)そういうわけで、早くもキーボードを置きます。

 

さっきから、窓の外では霧雨が音もなく、間断なく降りしきっています。昨日、母から「雨が降る前は風が強くなる(ことが多い)」、そして「秋雨は梅雨期よりも雨量が多い(ことが多い)」という、自然界におけるたいへん実用的な知恵を教わりました。大人になっても知らないこといっぱいですね。

 

さっきまで、ジェイムズ・ディッキーさんというアメリカ人作家の冒険小説『救い出される(原題 DELIVERANCE)』を読んでいました。僕はこの作家もこの小説も知らなかったのですが、帯によると、当時(1970年)、本国ではずいぶんと売れたそうです。

救い出される (新潮文庫)

救い出される (新潮文庫)

 

もう少しで読了するのですが、じつに波乱万丈な物語です。でも語り口の通奏低音に、静けさのようなニュアンスが流れていて、不思議と詩的な趣きに溢れています。読み終えたら、きっと感想を書きますね。それではそろそろ、そろーそろーと森に戻ります(くすり)。おやすみなさい。

押し入れ部屋から〜From my closet to you〜(7)

押し入れ部屋での実験、あるいは挑戦、あるいは篭城(そんな大仰なものでもないが……)は今日も続く。

とろんとした暗闇の中で思い出しているのは、昨日、私がささやかに営む名曲喫茶によくいらしてくださる方に教えてもらったハードカバー。 

無頭人(アセファル) (エートル叢書)

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  • 作者: ジョルジュバタイユ,Georges Bataille,兼子正勝,鈴木創士,中沢信一
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遠目から見ても、装丁がとても素敵と思った。内容はいかにも哲学的で、論文的で、難解そうだけど、近いうちに買って読んでみよう。

 

ジョルジュ・バタイユはかねてより好きな作家だった。と言っても、たぶん10年近く読んでいないけれど。海外小説好きとしては、『マダム・エドワルダ』『眼球譚』は永遠に語り継がれるであろう傑作と確信しているし、彼が残したいくつかの哲学論文も、学究の徒の書架にいついつまでも収まっていることだろう。

私が圧倒的に好きなのは、吾国の誇る詩人・天沢退二郎が訳した『青空』という小説だ(別訳者による同書『空の青み』は受け付けなかった。翻訳って難しいですね)。

青空 (晶文社クラシックス)

青空 (晶文社クラシックス)

 

 私が未だ20代後半だった(そんな日が確かにあった)曇った春の午後、隣町の『ブックセンターいとう』で700円で買い求め、今はなき『邪宗門』という喫茶店で灰皿を一杯にしながら、ブレンドコーヒーを2杯飲みほし、ひといきに読んだ。それから何度も何度も読み直した。

だけど今、もっかい読み直そうという気にはなかなかなれない。何故だろうか? とにかく、恐ろしくモラトリアムで、まさしく戦時中で、恋愛真っただ中!な内容だったようにき記憶している。当時の私はすさまじいばかりに自己同一化していた。

うろ覚えだが、バタイユはこの小説を「絶版」にしようとした目論んでいたらしい。しかし、この小説の冒頭には序文みたいのが記してあった(たぶん)。そこでバタイユは、「この小説はいかにも若き日の愚かしさであって……(中略)しかし、致し方ないので再版する運びに……」みたいなことを書いていた(はずだ)。

 

そんなこんなもうろ覚えなので、すぐさま書架で確認してみれば良いのだが、奇妙なことに、それがどうしても出来ない。今、この押し入れを出るくらいなら、このブログを10000字記すほうがまだ楽だ。リアルにそう感じている。何故か知らん。

 

あ〃、私は本当に出不精だ。この、狭く暗い押し入れから出ることさえもこれほどまでに面倒なのだから、何らかの烙印を押されるべきだろう。あるいは、私は「押し入れ」という場所を象徴的に、実際的に、具体的に愛し始めているのだろうか? この限定された場所から身体を離せないほどに。

あるいは、私は「出る」という行為が本来的に苦手なのかもしれない。きっとそういうのが「引きこもり者」と呼ばれるのだろう。そんな引きこもり者にとって、「押し入れ」とはいかにも本来的な場所であろう。そういうわけで、明日もきっと押し入れの中で記しますのでおやすみりんりん。今日も鈴虫が鳴いています。

押し入れ部屋から〜From my closet to you〜(6)

私事で恐縮だが、この日(9/11)の23時頃から床に着く刻の直前まで記されたはずの、たぶん約1000字程度の文書が、例によって私の過失により、一瞬にして雲散霧消してしまった。

先日、PCに保管していた10年ぶんの写真をひといきに消滅させてしまった時ほどの衝撃ではなかったが、やっぱりそれなりにショックを受け、おそらくはすぐにふて寝してしまったのだろう。それで1日空いてしまったわけだが、この「押し入れブログ(仮称)」は連日記すことが肝要に思われるので、翌日(すなわち今)、後追い的に記しているという次第。

 

だけど、ちょっとでも思い出してみよう。

 

喫茶仕事の疲労と酔いと睡眠不足(この日は何やかやで3時間半しか眠っていなかった)により、フラフラ状態の中、押し入れの中に入り、何やらシリメツレツなことを、でも、その時の自分なりに、かなり重要に思えることを記した(つもりだった)。たぶん、普段よりも長い時間(2時間くらい)はかけたと思う。しかし、失った刹那、自分が何を記したのかを一切合切忘れてしまった。とにかく深いため息をついて倒れこむように眠ったように思う。

だけど今、記したセンテンスをちょっとだけ思い出した。それは、たしかこんな一文であった。

この押し入れの中は漆黒の闇である。漆黒というのが言い過ぎなら、「まだら」の闇である。だからこの記述の冒頭に、押し入れとも闇とも無関係な、明るい外界の写真を貼ったり、押し入れと無関係な記述など全然まったく要らぬ気がする。押し入れの中では、押し入れのことと内と外の闇のことだけ書いていればそれで良いだろう。暗闇の写真を毎回貼るのはありだが。

(今の私はこのようには全く思っていないが、この日、自分が抱いた気持ちを尊重して、この日の記述には写真を貼らないことにする。)

 

余談だが、翌日(すなわち今日)、押し入れの中に入ってみると、床に未開封の赤ワインの瓶が転がっていた。割れていなくて幸いだった。暗闇の中でワインを飲みながらこれを記そうとしたのだろうか。きっとそうだ。だが、ワイングラスを置くスペースはこの押し入れの中にはないから、きっとラッパ飲みで(瓶は床に置いて)飲もうとしたのだろう。しかし、書き始めたら飲むことも忘れて一気呵成に記事を書き上げて、次の瞬間、何かしら致命的なキーだかマウスだかをクリックしてしまい、結果、この日の押し入れ日誌は灰燼に帰した。

 

ちなみに今は全く酔っていないから(ギネス1杯しか飲んでいない)、この記事が灰燼に帰すことは多分ないだろう。しかし、失われた記事に思いを馳せると、いささか残念な気持ちになる。

 

それは午前3時頃、広くて暗くて人の少ない居酒屋(私のイメージでは『笑笑』だ)で知り合ったばかりの友人とサシで飲んでいる時、或る瞬間、相手と奇跡的なまでの波動の一致で話が噛み合い、盛り上がり、その話が何かとても重要な地点に行きかけたところで、彼(あるいは彼女)が「ごめん、すぐ戻るわ」などと言って、やおらトイレに駆けこんだまま戻って来ないので、私も千鳥足でおそるおそる確認しに行ってみると、彼(あるいは彼女)が洗面台の前の床でのびていた時の無念さと虚しさに似ていないこともない。その後、朝のマクドナルドに彼(あるいは彼女)を連れていき、ともに酔いざましのコーヒーなど飲んでみても、もう、その時の話をすることは絶対かなわない……また明日だね。