水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

Re-member

昨日のギター演奏は、深夜にパーティの酔いを醒まそうと、石で造られたらせん階段を上っていたら、ふいに踊り場に出て、そこで普段は昼間しか会わないアザラシがヒゲを「ぴん」とさせて、街を見下ろしながら黄昏ているのを目にしたのだが、声はかけずにおこう……っていうような心持ちにさせてくれたし、

今日のクラリネット演奏は、よく晴れた肌寒い冬の朝に冷たいベンチに腰かけていたら、どこからともなく幼子の囁きが聴こえてきたので、じっと耳を澄ませていたら、それはいつのまにか羊の鳴き声に変わっていて、ベンチは午前11時20分の日だまりに包まれていた……といったような気持ちを呼び起こさせてくれた。

 

さて、モーツァルト「12の二重奏曲」。この曲が奏でられていた午後2時40分頃、私はたくさんのお客様のためにいつになく大量のコーヒーを淹れながら、耳は演奏にしっかり集中しながら、幾分個人的なことを思い出していました。おおむね、今朝の夢に思いを馳せていたように思います。

他人の夢ほど興醒めなものはない、とはいつだって言われることですし、僕もそう思ってしまうことが多いのですが、今朝、やけにくっきりした夢を見て、僕は淀川さんじゃないですが、「いやあ、夢ってホント良いものですね」と心から思ったのです。たいてい夢は憶えていないか、憶えていてもだいたいがナイトメアなので、いっそう。

 

(夢について具体的に述べるのは難しいのですが)頑張って具体的に言うならば、

「愛し、愛されている」という実感を伴った束の間の生命時間のことを思い出したのです。

それは光彩煌めく、ぬるいプールの中に両足沈ませて、淡い幸福感を感じながらゆっくりと歩いている時間でした。直喩です。ドアを開け、出会い、瞳と瞳が放った光線が優しく、直截に、正しく交差し、自然に手を重ね合わせ、同じ景色をふたつの心でともに感じているっていう奇跡をともに感じているっていう奇跡を最高に感じました。

 

きっと「ジェンダー」とはこのような経験のメタファー、あるいは便宜上の顕在なのではないか? ぬるい水の中を歩きながら、らせん階段を上りながら、冷たいベンチに腰かけながら思った。愛おしさとか満たされなさとかやるせなさとか絶望とか真理を垣間みたような一瞬の覚醒感とか深い悲しみとか勇み足だった使命感とかじゅくじゅくした欲望とか頭を垂れるような諦めとか拳を固く握りしめたくなるような達成感とか、そういうのは、芸術や人生の主題になるくらい巨大ではあるけれど、やがて(あるいは急に)、柔らかい、異質な毛布にふんわりと包まれて、ちょっと意外になるくらい「あれれれ」と思う間もなく、彼方に飛んでいっちゃった……。

そんな魔法めいた瞬間を、無理やりに言葉にすれば「恋」とか「愛」とか「神」とか「さよなら」とか、そういうのになっちゃうんだけど。でも、言葉にする必要はきっとなくって、夢の感じは夢で感じたままにしておくのが良さそうです。心からそう思った。

 

ねえねえ、今日はどんな1日だった?(と私が誰かに問う。あるいは誰かが私に問う)

 

そうだね、君のビッグ・アイズからすれば、相当に慈悲深く、普遍的で、愚かしく、麗しく、いかにも地上的な1日が立ち上がってくることだろうが、この限定されたいち個人――すなわち私――の近視眼(0.1以下)から見れば、名曲喫茶を営む痩せた男が猫に起こされ、ばたばた雑事に追われながら夢なるものに思いを馳せ、仕事の後は蕎麦屋で友人とちょい呑みの誘惑にあらがえず、そのままはしご酒して帰宅してからもしつこく呑んでいるうちに、身も世もなくなってしまったような気ぃするが、現実は目の前にしっかと現前しているし、さあ、明日も頑張ろう!というようなありふれた1日だったよ。おやすみりん。でありました。

酔い者は雨にけぶった多摩川を想う

あ〃、何かしら、記さなけりゃ——

 

そう思った時、自分がはたして何を記すつもりなのか、ろくすっぽ判っていないことが、常にではないがけっこうある。今日なんかはもろきゅうそんな状態だ。

 

今、間断なく雨が降り続いている。

 

雨が降ってると、否応なしに森とか川のことを考える。その場所のにおいとか、情景とか、たたずまいみたいのを。それで考えてるうちに、行きたい気持ちがじゅくじゅくと自分の内に芽生えてくる。もちろん山も海もやぶさかではないが、現実的にはなかなか行けるものではない。けっこうな危険を伴うし。

でも現実には、僕が今住まっているこの部屋から、徒歩50分くらいで多摩川に到着することができる。

多摩川に到着した時、僕はチャコールグレーのウインドブレーカー(2年前に従姉妹にハワイ土産でもらった)を着ているだろう。右ポケットに忍ばせた小さな水筒の中に、生ぬるい日本酒を忍ばせているだろう。左ポケットの中のiPhoneが雨に濡れないように、2重のポリ袋に入れているだろう。足が濡れないように両足にもポリ袋を被せているだろう。(僕はそのくらい用意周到入念な男だ。)

 

だけど、誰もいない、雨にけぶった多摩川べりで日本酒をきこしめしていても、およそ25分くらいしたら、ある種の空しさと後悔を禁じえないだろう。

「俺はいったい何やってんだ?」みたいな疑念が頭をよぎりかねない。常人らしく、熱い湯船が恋しくなるかもしれない。だけど引き返すのも面倒だから、いっそ日野橋を渡ってサイゼリヤ日野店で雨が止むまで待つか……とか思っちゃうかもしれない。そんな時、心の片隅で、「ああ、俺もやきが回ったな……」とか思っちゃうかもしれない。

雨が小止みになり、空が白むまで、川の流れを注視していられないなんて! リアルな川音から逃げて、身を濡らし続けてくれる雨を避け、安全で無菌で有料なサイゼリヤに逃げこむなんて、そんなのかなり馬鹿げてる。

 

しかし、雨降る川沿いで酒をきこしめしながら、はたして僕は自分に何を証明したいのか? 俺の根幹、あるいは保留信(ぽるしん)は10年経っても変わっていないぜ、とでも言いたいのか? 川の流れはいつだって変わらないから素敵だ、とでもしたり顔で言いたいのか?

ちがう、ちがうのだ、マイ・フレンド。川は変わらなく見えてももうあの頃と同じ川ではないし、川沿いの工場はいつのまにか全部閉鎖されてるし、同じ自分に思えても全く違う自分だし、あの時感じたスピリットはせいぜい酒瓶に残った一滴ほども残っちゃいない。サイゼリヤのグランドメニューだってすっかり一新されちまった(アンチョビキャベツを残してくれてありがとう)。  

 

あ〃、無体な話が長くなってきた。そも、いったい何の話をしていたのだっけ? さっぱわからなくなってきた。自慢じゃないが、ほろ酔いの時、そういうことは多々ある。次回はよく晴れた日の多摩川のことをレポろう。おやすみなさい。

Autumn Interlude(初秋間奏曲)

閑話。

前回記事『微睡みと覚醒〜珈琲雨水のこと』は、多くの雨水さんファンの方々が拡散してくださったからだろうか、図らずもこのブログ記事中最大のアクセス数(って言うのか?PVって言うのか?寡聞にして知らぬ)を得ました。あまり実感ないけど、ありがたいことです。ちなみに次に数が多かったのがこれらしく。無理もない。きっとあの日はたくさんの方が「五嶋みどり」で検索されたことだろうから。

lovemoon.hatenablog.com

ちなみのちなみにその次は、吉祥寺の花屋『4ひきのねこ』。これまた無理はない。何しろ昔からずっと変わらず素敵な花屋さんだからな。

lovemoon.hatenablog.com

 

ここで得られる認識。「見られる数の大小にはもっともな理由がある」。ううむ。

 

さて、管理人著者としては、このささやかなる個人的ブログにおいては、矢張りこういうのが好ましいと感じる。「こういうの」というのは、この僕がどうしただのこうしただの、何を感じただの、あれしただの、或る局面にさしかかっているだの、そうしたことは(とりま)棚上げして置き、他者存在と——それもなるべく多くの他者存在と——共有できる主題について(喫茶店であれ、演奏会であれ、書籍であれ、豆であれ、純米酒であれ……)記していたいってことだ。そして、記したことごとが多くの人の目に触れて、何かしら好きものを1人でも多くの方にもたらすことができれば、それを「僥倖フィードバック」と呼びたい。ふざけて言ってんじゃない。

しかし、他者存在と何かしら感情を共有できることを記せる、健やかに冴えた状態であるためには、自分自身の、常日頃、風にたゆたう雲のように変化していく、この流動的な在りように多少なりとも着目し、文章化していくことも、これまた「この自分」にとっては必要不可欠のようだ。そういうのは手書きの日記でやればいいじゃない?だって?(いぶかしげにそう問う君丿声が聞こえたような気がした。)

 

鴨しれない。しかし、私はここに自分のことをたゆみなく記しておきたい気持ちをなかなか拭い去ることができない。かれこれ10年くらい前からずっと。手で文字を記すのが難儀という理由も多分にあるだろうが。

「この気持ちは何か?」については常人らしく長らく折りに触れて考えてきた。自己顕示欲? 承認欲求? 寂しさ? きっとどれもこれも当てはまるだろうが、多分それだけではないような気がする。そして、それだけではないところの「ところ」が、きっと自分にとってもっとも核となるモチベーションであるような気ぃするのだ。そして、それはいかにも名づけ難い。

ともあれ、今日は、今日もこれを読んでくれている奇態な(失礼)あなたと共有できそうな主題はまだ何もない。しかしそれは今んとこの話。10時間も経てば色々変わってくるだろう。たぶん。きっと。

ともあれ、現在は真夜中で、明日も名曲喫茶に赴き、店を開けるだろう。いつものように。ほとんど全てがそこから始まる。僕にとってのほとんど全てが。君にとってのほとんど全てが始まるドアが、いつでも滑らかに開け閉めできますように。君がそのドアを穏やかな気持ちで行き来できますように。誰かがそのドアを幸福な気持ちでノックできますように。心から祈っています。

微睡みと覚醒〜『珈琲雨水』のこと

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閉店日前日の店内風景

もうすぐ閉店しようとしている、あるいはすでに閉店している喫茶店について「回顧録」や「追憶記事」を記すのは、あまり本意ではない。喫茶店について何かしら記すのなら、その店が存在している時——まったき「リアル・タイム」に記すのがベストだ。ずっとそう思ってきたし、今でもそう思っている。

でも、ここ阿佐ヶ谷の純喫茶/珈琲専門店『珈琲雨水』については、縁あって数年前から足を運び、珈琲とケーキの味に舌鼓を打ち、この店の魅力について書きたい、書こう……そう思うようになってからも、なかなか記事を上げることができずにいた。

どうしてだろう?

言い訳じみているかもしれないが、近年、大切な喫茶店について何かをまとめて記せるような精神力が自分に著しく欠けていたのだろう。そうして先延ばしにしているうちに、先月、店主加藤さんから『珈琲雨水』の閉店を告げられた。もちろん私が何か記したからと言って、閉店日が変わるわけではない。それでも、もう少し早く記しておきたかったと思う。自分自身の問題だ。でも今はそんな自分を(ひとまず)許して、『珈琲雨水』について心ゆくまで記しておきたいと思う。 

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ブレンド珈琲(9番)

ここ雨水でしか飲めない混合豆珈琲があった。ここ雨水でしか飲めない単一豆珈琲があった。ここ雨水でしか味わえない多様な洋菓子(チーズケーキ、チョコレートケーキ、プリンetc..)があった。そして何よりも——この店でしか肌身に感じられない独特の空気(atmosphere)が存在していた。(本当は現在形で書きたい。でも認めなきゃならない、それらは今では——確かに過去だ。)

私はそれら全てを、木陰の花々の蜜を貪るちいさな蜂の如く、貪欲に味わうべくこの店に赴いた。中央線は阿佐ヶ谷駅の北口商店街を抜けて数分。狭く急な階段を上がること約12秒。やおら重たいドアを開け——『珈琲雨水』という名の素敵な喫茶店に辿り着くまでの間——己は何を考えていただろう? きっと、ほとんど何も考えていなかった。ただ、あの場所に少しでも早く辿り着くために、いつだって阿佐ヶ谷の忙しない商店街を抜け、足早に歩いていたように思う。

 

着席するとたいていブレンド(9番)かデミタスを注文した。

珈琲が供されるまで、幾許かの時間が流れる。それは頭で想像していた時間よりもほんの少し短く感じたり、長く感じたりする。(ここでは時間は伸びたり縮んだりするようだ。)

厨房にそっと目をやると、店主がネルで点てている姿が見える。細く長く、大きな手で、ゆっくりと。スピーカーからはトム・ウェイツの『レイン・ドッグ』が響いている。その小さく低いうなり声は雨音や外の喧騒と混じり合って、夜の時刻をそっと満たしていく。私は漆黒色のテーブルを見詰めながら、これから供される珈琲の味を精緻に思い出そうと努める。その味は記憶の中ではまだ曖昧模糊としている。

やがて、シックなカップに入ったコーヒーが席に運ばれてくる。

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ブレンド(デミタス)

大きな深いカップを手に持って、少しだけ右に傾ける。白い灯かりを照り返す、黒曜石の如き黒々とした表面が滑らかに、静かに揺れる。

口に含むとぬるっとした微かな粘度を感じる。舌触りはビロードのようにシルキー、かつなめらか。そして飲むたびに驚かされるのは、その絶妙かつ複雑な妙味。

雨水のブレンド珈琲はおいしいブレンデッドウィスキーを想起させる。ブレンドでなければ生み出し得ない、複雑かつ融通無碍な味わいがたしかにある。深煎り豆特有のスモーキーなコクと、焼きリンゴにも似た上品で軽やかな酸味と、スモモのようなほろ苦い果実味が同時に立ち上ってくる。

それは夏の鮮やかな情景を浮かび上がらせ、冬のきりっとした空気を際立たせる。それは心の或る部分をぴしりと突いてくる。飲む度に、「こんなにおいしいブレンドが飲めるなら、まだ生きててもいいよな……」。そんな陳腐な想いが頭をよぎる。でも、おいしいコーヒーは他のどんなものよりも「生き血」になるのだ。それは認めなきゃならない。

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コーヒーをすすりながら、目線よりやや上方にある絵*1を見上げる。刹那、時が止まる。1度見たら忘れられない。額縁の中から、こちらをまどろむような、醒めたような目で眺めている彼/彼女はいつだってそこにいる。

テーブルの上のカップはいつのまにか空になっている。私は「そこ」に行くための切符を買い求めるような心もちで、ストレートコーヒーとケーキを追加注文する。

チーズケーキは夢の中で出会った人によって差し出された、夢想的かつ匿名的なチーズケーキのように口の中でするするとほどけていく。後に切ないまでに爽やかなヴァニラ香を残して。

額縁の中の彼/彼女の視線を感じながら、小さく切ったチーズケーキを口に運ぶ。2杯目のコーヒーをぐいと飲む。ブレンドとは異なる、潔いまでにきりっとしたタンザニアの香りと渋味が、意識を再び「そこ」に運んでくれる。その時、私もまたまどろみながら目醒めている。喫茶店にいる1人の客として、今、確かにここにいる——そんな確かな実感を伴って。

 

2017年8月30日(閉店日前日の水曜日)が私の最期の雨水訪問となった。お客様は次から次へといらしていた。満席でも文庫本を傍らに、あるいは虚空を眺めるようにして過ごされている方々の姿が印象的だった。皆、それぞれの思いを胸に、この場所とおいしい珈琲と静かに向き合いに来ていたのだろう。いつものように。帰り際、1人1人丁寧に挨拶していらした店主加藤さんの笑顔が素敵だ。

あの店の霊妙な空気と珈琲の美妙な後味が、訪れた方の心の内に永く残っていますように。店主加藤さんのこれからの旅路に数多の幸がありますように。

そして心からありがとう、『珈琲雨水』。あの場所はこれからも皆の心の内にあるだろう。私たちは、そこで微睡みと覚醒の時間を持つことができる。ずっと。

名曲喫茶 月草 堀内愛月

*1:画家/喫茶店店主の手塚真梨子さんによる絵画

開店/生誕記念日(深い感謝とともに)

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濃霧の中でおはようございます。まったき私事(わたくしごと)ですが、現在は午前8時きっかです。

これから自前のかけそば(ゆですぎ注意)をすすってバナナケーキを食べ、アッサム紅茶を飲み、さっさと支度して出かけ、名曲喫茶を開けます。いつものように。そこでは数多のクラシック音楽が流れていてほしい。いつものように。そこでは音を音たらしめる静寂が流れていてほしい。いつものように。そこではコーヒー香と夢の切れはしのようなものが流れていてほしい。さめざめと。

ここでは「いつものように」が奇跡であり、恩寵であり、僥倖です。ほんに心からそう思う。

さらにまったき私事です。

先月の17日は「海の日」でした。それは私がささやかに営む名曲喫茶の5周年記念日でもありました。長きに渡ってご愛顧頂いているお客様にも拍手(かしわで)を頂いたり、お花を頂いたり、焼き菓子を頂いたり、CDを頂いたり、照明器具を頂いたり、アロマを頂いたり。そして母からの無糖タルト。ありがたき。

事も無げにさらりと記していますが、その日、私の心中にはまるまる5年ぶんの感無量が襲ってきまして、まともに立っていられないほどでした。さらに、そこに激しい感謝の念もこみあげて参りまして、現実の店仕事も普段通り忙しく、実際のところ、てんやわんやでありました。ところてんではありません。言うまでもないことですが。

さらにまったき私事が続きます。

今月19日は私事を私事たらしめている、私なる生きものの生誕記念日でありました。これについては、おかげさん。くらいしか言えることなさそうです。

誕生日。それは「シンボル」みたいなものと思われます。さてはて、何のシンボルか?と自分に問うてみる。

それは、どんなものも誕生日なるものを持っているということ。たとえ君がその日を忘却してしまっても。あるいは君以外に誰も憶えていなかったとしても。世界の片隅だろうと、中心だろうと、沿岸だろうと、とにかく「それ」が確かに存在した、あるいは今しているという印。何かのおかげで。誰かのおかげで。猫も、風も、音も、雨も、店も、花も、魂も、星も、絵も、言も、土も、一切合切「おかげさん」。この世界におかげさんじゃないものは存在しない。

そんなようなことを思い出すために「誕生日」なるスペッシャル・デイがあるような気がしないでもないです。そして、誕生日は君に心からのお礼を言える、嬉しき1日でもあります。(ありがとう!)

あらら、とっくに蕎麦が茹であがっているようなので今日はこのへんで。

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8月の現(実)状(態)

8月が来てしまった。いや、もうとっくに来ているのだが。

7月の蒸し暑さ(今年は空梅雨だったせいか、異様なほどに感じた)を経由したせいか、感覚が狂っているらしい。6月の記憶よりも2月の記憶のほうが生々しく感じたり、5月が遠い昔のように思えたり、春先が来年のことのように思えたり(これは正しい)、秋をすっとばして冬が近づいてきているように感じる。長く生きれば生きるほど、自己内時間的感覚は混ざり、濁り、渾然一体となるのかもしれない。

あるいは、蒸し暑さや鳴き止まない蝉の声といった夏的な要素とは無関係に、僕は心身ともに中年期の混濁(なるもの)にどっぷり浸かっているのかもしれない。あるいは日々の飲酒による酩酊の所為かもしれない。あるいは目の前に展びている道をしっかりと見定めるための視力が不足しているのかもしれない。(実際、僕の視力は0.1もないのです)

しかし、そういったあれこれをあれこれ検証するのは止そう。確かなことだけに目を向けよう。今の僕は今の僕で、今は8月で、君はそこにいる。「そこ」というのは僕にとっての「ここ」であり、僕がここでこうしているように、君もそこでそうしているはずだ。たぶん、きっと。絶対、とまでは言いきれないんだけど。

 

話は変わるのだが(いや、ホントは変わっていないのだが)、先月、僕がささやかに営んでいる名曲喫茶が記念すべき5周年を迎えました。ぱち、ぱち、ぱち。

それについて何かしら思うところはあるか?

と、自分に問うてみると、もちろんかなりあるようだ。毎年のように。しかし、その思いは今年の夏に対しての感情にかなり近い。より混濁し、より絡み合い、より一筋縄ではいかなくなってきているようだ。

それでも、心の内で感じてる想いというのは意外なほどシンプルであって、それを口にすると、やはり「ありがとうございます。」に尽きるように思う。あのような場所で、あのような形で、このような私で、「名曲喫茶」などというきわめて限定的な場所を5年間も営み続けてこれたのは、奇跡であり、僥倖であり、恩恵でしかありえない。そして、「5年」という期間は「10年」ほどではないにせよ、ひとつの「節目」となるシグネチャーと感じる。これからのことを考えるにしても、これまでのことを振り返るにしても、かなり適切な楔(くさび)だ。

 

夏(やらなんやかや)のおかげで、今の僕は現実的なあれこれをろくすっぽ考えられない。でも、心をひとところにまとめるべき時期が近づいている。それだけはわかる。弓をまっすぐ引き絞り、的を見詰めて、やがて的と一体になる。放った矢が的を得るかどうかについては一切合切考える必要なし。それはたいして重要な要素ではなしなしなし。

というのが、おおむね今の僕の個人的現実であり、状態であり、現状であり、実態なのでありまする。お座なりに響くかもしれませんが、夏バテや熱中症など、どうかどうかくれぐれも気をつけて。ともに涼しい秋を迎えたいです。

のっぴきならない夏に(初夏バテ所感)

多摩川に赴いてからブログを更新しようと目論んでいたのだが(前記事参照)、行こうぜ行こうぜと思っているだけではなかなか行けないので、とりま多摩川のことは置いといて(どうせ遠からず行くことになる)、改めて追記するとしよう。

さて、ここに私事をつらつらと羅列するのはあまり気が乗らないのだが(しかし、ここに私事以外の何を記せるのか?を追求するのはまた別の機会に譲るとして)、最近思うことを5つばかり列挙してみたい。ホントは5つじゃ足りなくて9つはあるのだが、今日は仕事前なので9つ記す時間が足りないのです。

 

1、先日、行きつけのお店で売っている素敵刊行物を作っていらっしゃる方がその店にイベントでいらしていたので、少しお話して、それから長めのインタビュー(のようなもの)をさせてもらう機会を得た(こちらからお願いした)のだが、これがたいへん善き経験となった。

久しぶりに文字起こしなどしてみると、反省する点はそれもう多々山々だし、おまけに私の聞き手としての稚拙さと人間としての未熟さが思わず赤面するほど浮き彫りになるのだが、それらも含めて得られた諸々がありがたかった。快くインタビューを受けてくださったNさんと、場所と機会を設けてくださったM夫妻に感謝。記事は近いうちに適切な場所で公表できたら嬉し。

 

2、当方、今を遡ること数十年前——すなわち中高校生時代から、「運動音痴だけど断続的陸上走者」であることを自認し、自らのスポーツマンシップ的自己同一性を保つための「寄すが」としてきたわけだが、このところ、そんな自己同一性なんて崩壊寸前っていうか、そもそもそんなものあったん?っていうくらい、ろくすっぽ走れてなかったん。

だが先日、隣町の、かつてよく通っていた某大型スポーツ用品店に立ち寄ってASICSの或るスニーカーを試履した時、「あ〃、己はやはり走っていたい」という確かな欲求と自己確認がふつふつふつとたぎってきやがった。なので来年、中距離系の大会に出場することを目標に(いや、ほんに)、初心に戻って日々走り込んでいきたい所存ですわ。暑いが、熱い夏になりそうだ。

 

3、いやはや暑い日が続きますね。僕はけっこう昔から、どんなに暑くても冷コーヒーや冷紅茶や冷ジュースの類いはほとんど口にせず、暑い日こそ熱い濃いコーヒーなのさっ(ふっ)。などと、全身から汗水流しながら、涼しげな笑みを浮かべていた(つもりだった)ことが多かったのだけれど、その理由についてちょいと考えてみると、夏は冷房や薄着で、無意識のうちに身芯を冷やしていることが多いから、せめて飲みものくらいはさ、冷たいもの避けたいよねー、などとしたり顔でのたまっていた(つもりな)のだが、年期入った酒好きの性として、冷えビールだの冷え白ワインだのは人一倍飲んでいるのだから、結局なんの説得力もありませんでした。でも、夏バテより夏冷え注意。

 

4、最近、今をときめくゲームハード任天堂『SWITCH』を用いて『ARMS』というタイマン対戦格闘ゲームに自分でも自分に驚くほど夢中になっているのだが、「オオオオオオーオオ(テーマ曲)」などとのたまいながらコントローラーを握っているだけでなく、いちライター(?)として、このゲームの意義と所感についてしっかり文章化しなければ、と意気込んでいる今日この頃です。俺も(あたしも)ARMSやってみたいって方、いらしたら私までお気軽に連絡ください。まだまだ下手者ですが、スパーリングなど積極的にお付き合いします。

 

5、最近、「音」と「文」が圧倒的に足りていないな、と感じています。それはほとんど栄養失調を起こしそうなレベルで。今年は年明けから例年通り、いや、例年になく腑抜けていて、その欠乏に気づくこともできないでいた自分が情けない。自分で自分を満足させる量を読み、心身ともに音に満たされるくらい聴き入るためにはそれなりの時間がどうしても必要になる。ああ、真空的空間に焦がれる。押し入れは暑い。ドトールはやかましい。やはり名曲喫茶なのか。

 

《まとめ》

今年の夏は個人的には現実的にも心情的にも、のっぴきならない気分が通奏低音として流れっぱなしでして。なかなか寛いだ心持ちで、横丁の軒先で杯を傾けつつ文庫本のページを繰ることなど全然難しかったりする。でも、きっと先は短くもないけれどそれほど長くもない。だからさ、いや、短かろうと長かろうと、穏当だろうと、今は今しかないのだから、2017年7月現在を最高に感じていたい……! 心から、ほんに心から、思う願う今日この頃の私です。七夕は過ぎたけど、いつでも心に短冊を吊るしてばかりの私。君もあなたも夏バテによる意気消沈にくれぐれもご注意あれ。意気軒高、いや、意気衝天。「のぼり」でいこうぜ! 此れは空元気に非ず。たぶん、きっと、絶対。