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水と今

かくして君は待つ、ある人が現れるのを。君の命をとめどなく膨らませにやって来るのを。(リルケ)

『美女と野獣』を観た

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当方、実写版ディズニー作品を映画館で観るのは初めてかもしれない。(DVDでは何本か観ているけど。)

何故にこの映画をよりによって封切り当日に観ることになったか。言ってみれば「たまたま縁」。エマ・ワトソンが好きで好きでたまらないとか、イケメン野獣が『ダウントン・アビー』のマシューさん役だからだとか、かねてより原作のファンであった、とかとか……そういった動機からでは全くありません。

思えばこの『美女と野獣』。数年前、フランス製作で映画化された実写版もDVD鑑賞しているのだった。今にして思えば、これもまたどうして観たのか。全体的な記憶も朧げだった。主演がレア・セデゥ(美女。『アデル・ブルーは熱い色』の彼女はじつに魅力的だった)とヴァンサン・カッセル(野獣。僕はこの俳優がかなり長いこと大の苦手だったが、先日観賞したグザヴィエ・ドラン最新作『たかが世界の終わり』の長男役では胸を打つ名演ぶりを見せてくれた)だったことはよく憶えているのだが。

今作観賞中、先行作である上記仏版の記憶がところどころ蘇り、頭をよぎった。それは大雑把に言うなら「仏的寓話センスと米的寓話センスの間に横たわる深く長い河」の存在を意識していたということだ。

といっても、仏版の色調や衣装(意匠)をディズニーのそれと比べて比較検討していたわけではない。というか、できない。そのあたりは詳しい方がつぶさに批評してくれるだろう。問題なのは、この『美女と野獣』は「仏国の片田舎で起こった物語」という伝承的設定というか、物語におけるまったき「事実」である。この観点から言えば、「らしさ」は圧倒的に仏版に軍配が上がるだろう。

前述した通り、僕は仏版を自室でDVDと液晶モニタで観賞している。今作(ディズニー版)の極上音響シネコン鑑賞環境とは比較にならない。それでも仏版の、画面全体から自然に滲み出るような妖しいリアリティと比べて、ディズニー製作のこちらはたとえどれほど多額の製作費を投じられていたとしても(相当に投じられているはずだ)、ある種の「書き割り」感が否めなかったように思う。

もっとも、今作に対して文句があるわけでは全くない。ただ、このディズニー版『美女と野獣』は私にとって、あまりに古き良き「ディズニー的」感が強すぎた。ディズニーランドのアトラクションのようなお仕着せ感が終始全編に漂っていた。無論、ディズニー製作だから仕方ないだろう。オリジナルに忠実な素晴らしい出来栄えだ、と言われてしまえばぐうの音も出ないが、ディズニー製作でも『魔法にかけられて』のような良い意味での怪作もあったからな。一昨年公開した『シンデレラ』もディズニーらしからぬ異色作らしいし(要確認)。

主演エマ・ワトソン嬢。何を演じていても本人の生真面目な「業」のようなものがスクリーンからも否応なしに滲み出してしまう、という意味において、かねてより魅力的な女性と思っているし、比類なきハリーポッターシリーズにおいてのハーマイオニー役は彼女しかありえないことは多くの方が認めるところだろうが、今作にはあまりそぐわなかったように思う。彼女の良い意味での「閉じた印象」があまり映画にフィットしていなかった。あくまで個人的印象ですが。 

最後に。とにかく文句をつける類いの映画でない、まったく。どころか、このディズニー的な、古風でシュールな世界を楽しむことだってできるはず。実際、僕はけっこう楽しめた。もっとも、ディズニーファンで、エマ・ワトソンが好きで、『美女と野獣』に興味がある(元々好きなら)方にとっては、最高の『美女と野獣』になるかもしれない。

エンドロールには(当然ながら)「Beauty and The Beast」(アリアナ・グランデとジョン・レジェンド)が流れる。満席の館内のどこからか、若い女性たちのすすり泣きが聴こえてくる。前の席の若いカップルは彼氏の肩に頭をもたせかけている。最後まで待てない子供たちがスクリーンの前を足早に横切っていく。50年前、あるいはもっと前から、いつだって見られる、ディズニー映画上映後の正しい風景。隣町のシネコンでも例外ではない。

嬰ハ短調的睡眠の希求

「春眠暁を覚えず」と言う諺とはウラハラに、春が到来してからろくすっぽ眠れていない。「不眠症」とまでは言わないまでも、浅い眠りで何度でも目覚めてしまうから、睡癒が得られない。ちなみに「睡癒(すいちゃく)」という言葉は、今、勝手に作らせてもらった。以後お神酒知りを。もとい、お見知りおきを。

二日酔い&寝起きだからか、言語が乱れている。ついでに通信機器(wi-fi)の電波も乱れているらしく、切って、入れ直しても、なかなか接続されない。ゆえに、この記述は現在オフラインで記されている。記し終えたらコピーして、あとで繋がった時にアップするつもり。しかし、そんなことはどうでもいい。

このところ、このブログなる記述に何を記したら良いものか、戸惑ってばかりだ。理由は判っている。著者(私)が、自己の状況・状態について記したい欲求を持っていないから。むしろ、消極的でさえある。

ここに記しているのは、おもに「生活」と「所感」である。こんなことがあった、あんなことを感じた、あまり眠れなかった、明日は名曲喫茶仕事だ。その手のやつ。といっても、生活も所感も、日々、季節の推移によって微妙に、しかし確実に移り変わっていくものだから、今日こんな状態だからと言って、明日も同じような状態であるとは限らない。とくに気分なんて、状況によって転がる石のようにころりころりと変わってしまう。だからこそ、記し、残しておくことがときに役に立つ。こともある。ときには「足かせ」になってしまう。こともある。ときには記したことさえすっかり忘れてしまう。ことばかり。

明日はテンション高く、ディズニー映画について記しているかもしれないし、電子辞書の比較レビューを記しているかもしれない。あるいはストラヴィンスキー「春の祭典」をスヴェトラーノフ指揮とブーレーズ指揮で聴き比べてみての感想について記しているかもしれないし、吉祥寺で見つけた、春ものの素敵なシャツについて述べているかもしれない。それとも浅い眠りによって見た夢についてくだくだ述べているかもしれない。聞きたくなー。

ともあれ、そんな風に、いつだっておめでたく生きていきたい。世界がもたらしてくれるものたちを、頂けるものはありがたく享受していたいと心から思う。

何の話だったか。そう、自分の状況や状態について記したい気持ちにまるでなれない、という話でした。そんな気持ちを私はここで吐露しています。この場所は今、「消極的な気分」を吐露するための「受け皿」として利用されているようです。

あ〃、何らかのタイミングによって、ブックマークによって、検索によって、この記述を読んでいる人のことを考えると、いささか申し訳ない気持ちになります。私としては、も少し有用な、そうでなければせめて面白みのある記事を提供したいのですが。

とりま、ベートーヴェンの弦楽四重奏 嬰ハ短調(作品131)を聴きます。吉田秀和氏が「私の好きな曲」で賞賛していた曲。氏は「私にとって『絶対の音楽』だった」とさえ書いていました。利口さを微塵も感じさせない言い方で述べると、私も大・大・大好きな曲でして。自分の存在が、感情が、人生が、普遍的で、人間的で、儚いものであることをはっきり得心させてくれる曲です。おまけに、そこにはかけがえのない美しさがあります。それも創出した美しさではなくて(創出された美しさもまた素晴らしい芸術でありますが)、計らずも零れ落ちてしまった涙のような、気恥ずかしいような、自然で否応ない美しさがめくるめく溢れている曲なんです。

吉田氏の名文によると、この融通無碍な演奏はブダペスト弦楽四重奏団かジュリアード弦楽四重奏団による録音物が推奨されておりますが、当方残念ながら所有しておりませんので、絶妙なヘタウマ加減(失礼)で有名なアドルフ・ブッシュ氏率いるブッシュ四重奏団で聴かせて頂いています。「古めかしい」と感じさせないくらい古めかしく、安寧を感じさせてくれるくらい絶妙にズレており、たいへん味わい深い演奏なんです。浅い春眠の傍らでいつでも鳴っていて、ね。

シューマンとエリオットの心響(私の場合)

唐突だが、昨日は不可思議な1日だった。

早朝から恐ろしく体調不良だった私は、かれこれ5年間ささやかに営んできた名曲喫茶を今日ばかりは臨時休業させてもらおうか(ほとんどないことだ)、あるいは無理に行って開けてみて、どうしても無理そうだったら途中で閉めるか……。

などと、吐き気と耳鳴り止まないせいで、うまく回らない頭で弱気に考えていた。店に向かう途中などは、まるで漫画かアニメのキャラのようにオーバー・アクションでよろけまくってしまい、通行人や商店街の方々が警戒と心配が入り混じった目線を送ってくれているのが如実にわかった。全て、春のせいです。そうでなくてもそういうことにしておいてください。

いつもの倍くらい時間をかけて掃除と支度を終え、どうにかいつも通り正午に店を開けた。そして、このような日に限ってお客さんは次々とご来店くださるのだ。実のところ、自分が何のレコードをかけたのか、ろくすっぽ憶えていない。いや、1枚というか1曲だけ憶えている。アレクシス・ワイセンベルクの弾くシューマンのピアノ曲。余談だが、このCDはすでに廃盤になっているものを、所有していたお客さんに頼み込んで譲ってもらった貴重なものだ。

そのシューマンにめくるめく春を感じた。いや(否定)、それは正確ではない。クラシック音楽には、どんなものにもそれぞれの四季を感じるから。古今東西多くの作曲家たちが「四季」を主題とした楽曲を作ってきたのは、じつに得心できる。「季節」を含む森羅万象は、必然的に、自然に、人間という自然によって音楽に封じ込められていくものだと思うから。あるいは、音楽それ自体が森羅万象と言うべきかもしれない。「音楽とは存在」。そう言うべきかもしれない。エッセ、ザイン、エトル……。大通りの桜はもうすっかり葉桜かな……。コーヒーの煎りがいつもよりもやや浅いな……。

そんなようなことを(考えるともなく)考えながら、せっせとコーヒー淹れ、パンを焼いているうちに、いつのまにか、いつのまにま午後3時を回っていた。繰り返しになるが、その3時間で翌日の現在、憶えているのはシューマンのピアノ曲だけだ。そんなにワイセンベルクの弾くシューマンに思い入れがあるのか?と問われると、「いや、そういうわけでは……。」と答えざるを得ない。シューマンにもショパンにもブラームスにもそれぞれに固有の、強力な思い入れがある。それでも昨日、ある種の生命的危機を感じながら、時間を忘れて働いていた時のピアノの響きは異様なまでに鼓膜に焼き付いている。おそらく、危機的状態と春の気と私の個人的感情と店内の空気を、シューマンのピアノ曲が束ねて昇華してくれたのだろう。そうでなくても、そういうことにしておこう。

夕方になって、心身落ち着いてからかけた曲は全部記憶している。40年代録音のSP盤ベートーヴェン「ロマンス」、バッハ・ハウスにおけるコンサート(バッハのコンピレーションアルバム)、ワルター・ギーゼキングのドビュッシー、ウィルヘルム・ケンプのバッハとヘンデル。やはり個人的な安寧を覚える盤に無意識に手が伸びていたように思う。僕はとにかく落ち着きを求めていた。

余談だが、店を閉めてからも、全体的に不思議な時間が流れた。傍目にはとくに不思議には見えないかもしれないけれど、僕にとっては「ふしぎせんばん。」な一夜であった。4月は残酷な季節だ。と、詩人T・S・エリオットは「荒地」に書いていた(たぶん)けれど、本当にそうだ。ふとした瞬間、気体になってしまいたくなる。今は夏の到来までもが待ち遠しく感じる。冬はずいぶん遠ざかってしまった。

再び余談だが、今朝は白猫の夢を見た。昨年末に他界した相棒猫にとてもよく似ていたけれど、それは外で出会った(そして連れ帰った)別猫(という設定)だった。でも、動きも見た目もほぼ同じようにしか見えない。母がその猫に嬉しそうに声をかけていた。そんな夢を見るのはたぶん2度めか3度めだ。

まったくもって、余談と私事がバーストしまくってきたので(なるべく私事を書かずにブログを運営したいのだが、なかなか難しい)、今日はここでキーボードを置こう。(わ、もうこんな時間!)

葉桜と紙巻き煙草のワルツ

大通りの桜はここ数日の激しい雨風でだいぶん散り去り、梢にはちらちらと若葉が混じり始めている。見に行ってないけど、そういう風景を期待している自分を感じる。

先日も書いたことだが、今年は(地元の政策も手伝って)花見人の数がやたらと多かった。朝、昼、夜……きっと今現在も。人が少ないのは真夜中くらいか知らん。

私も常人らしく、陽が出ているうちは開けっ広げな空気感と飛散しまくる花粉に気後れしてしまって、ゆったりお花見気分にはとてもじゃないけどなれない。深夜、人気の少ないベンチに腰かけて缶ビールなど呑んでいる時が、もっとも春の気を感じられる刻だが、今年はそんな余裕もなかった。いっそ知人友人に声をかけて、敷物敷いて出来合いの総菜と缶ビールなど並べて集団的花見行事を強行する——というのもこの時期を乗り切るひとつの手だてであろう。が、これもどうにも気が乗らなかった。そも、招集しても誰1人集まらないかもしれないし。

手の付けようのない春。受け入れることも、突っぱねることも、やけになって楽しむこともできない春。暗い不安と淡い期待と透明度の高い哀しみに包まれる春。

そんな春の夜はきまって煙草を喫いたくなる。衝動的だったり、発作的だったり、あらがえない欲求によって。

毎年、春になると煙草屋でひと箱買い求め、桜の花が散りきる前に嗜むのが常だった。でも、去年一昨年と(たぶん)1本も喫っていない。今年もたぶん喫わないだろう。「春の夜、誰もいない公園で喫う」という行為は、長年をともにした煙草に対する自分なりの誠実な向き合い方だったが、あまりにご無沙汰しているうちに、ぎこちない挨拶にわざわざ出向くのが面倒になってしまったようだ。もはや誠実とは言えない。今年は煙草の代わりに酒瓶持って、あの公園に行こうかな。すっかり散りきらないうちに。

さらにまったき自分話が展開する。

かつて、かなり夜型の生活をしていた。明け方まで起きていられる肉体的/精神的/時間的余裕があった。それで春の夜が更けると自転車にまたがって、「ここではないどこかの桜」を探してあちらこちらへ赴いた。具体的に言うと、多摩川とか玉川上水とか日野とか小平とか国分寺西町とか。それは自分らしく、落ち着いて浮き立てる希有な時間だったように思う。ここ数年、そういったことをろくにしてない。せっかく自転車を新調したのだから、久しぶりにやってみるか。やってみよう。

春だからか(春でなくても)、とりとめのないことばかり記している。なんやかやで今日も花見に出かける余裕はない。明日明後日は名曲喫茶が私を待っている。12時間、ひとところでクラシックを聴きながら働けることがじつにありがたい。何か、春らしいワルツをかけよう。いらしてくださった方が春の到来を感じてくれそうなやつを。

桜と毛虫たちの午後

先週の或るいっときを境に、外気が仄かな暖かみを帯び、蕾のまま留まっていた桜たちは天からの赦しを得たかの如く黙々と咲き始め、時を同じくして、枝の上で長く押し黙っていた謙虚な鴬(うぐいす)たちも次々と鳴き始めた。

或る晩、まどろむような外気に鼓舞され、私も小瓶片手に大通りをそぞろ歩いてみた。今年、私の住む市は大通りの花見を推奨、いや激励しているようだ。大通りの桜1本1本が、真下に仕付けられた照明に煌々と照らし出されている。ほとんど夜のほうが目立つくらい。年末に取り付けられるクリスマス・イルミネーションと同じ発想と目的であろう。こんなことはこれまでになかった。

個人的には、照明で照らされた桜は派手ばでしく見え、それほど好みではない。桜は夜の闇の中で月の光、せいぜい街灯を浴びてさりげなく咲き誇っているのが粋と信じる。

ところがこの市の政策は大成功だったらしく、今年は例年になく花見人の数が増加していた。そこかしこに茣蓙やらブルーシートやらデッキチェアをしつらえた団体が散見される。駅からかなり離れた歩道橋の上までまさに「てんやわんや」。なんのかんので、多くの人は明るく照らされた、人が集まるところに集まるものなのだろう。羽虫と同じように……かく言う私も例外ではないが。

他方、桜の開花と時を同じくして、ここぞとばかりに室内にこもろうとする種族がいる。こうした者たちは「開花に拠るひきこもり(たがり)たち」と呼ばれる。

彼らはノイズ・キャンセリング・イヤフォンを愛用し、1人で外食する時もたいていこれを装着している。音を聴いていることもあれば、頭蓋骨に響く自らの咀嚼音に耳を傾けていることもある。本は外で読むと集中できないという理由から、押し入れの中で読む。Kindleという名の電子書籍端末は、暗闇の中でも、布団に潜りこみながらでも本が読めるので、彼らにとってはとくにありがたい文明機器だ。

彼らは書籍とともにテレビゲームの類いもこよなく愛する。混み合った店やデパートは苦手だが、本屋や家電量販店や中古レコード店で何時間でも立ち読みし、ゲームソフトやレコードを物色することに喜びを禁じえない。空いた時間ができると(あるいは、そのために時間を捻出さえして)、何時間でもモニターの前でコントローラーを繰っている。あるいは押し入れでつぶさに携帯ゲーム機を繰っている。気がつくと、机の上につっぷしたまま何時間も眠りこけていた自分を見つける。

起き出し、暗くなりかけた窓の外を眺めやる。細かい雨が降りしきっている。20時間ぶりに外に出て、雨に濡れた桜を傘をささずに眺めていたい。そんなきわめて春らしい衝動に襲われる。この時期、ひきこもっていても、閉めきっていても、眠っていても、誰も桜から逃れることはできない。見えなくとも、桜はいつだってそこにある。咲いていてもいなくても。

ひばり

金曜日。

明日は名曲喫茶番だから、いささか寝不足だけど、早めに起きた。

窓を開けると、完全な、完全に、完全の春がやって来ている。それはもう、あまりに明白で、もっとも本来的な冬の寒さを懐かしむこともできないくらい、確固としてそこにいる。

春に、そこここに咲き誇っている桜に、飛び回っている鳥たちに文句をつけることはできない。受け入れるっきゃない。受け入れて、慈しむことができたら、愉しむことができたら、遊ぶことができたらなお良い。

昨日、ハイドン弦楽四重奏『ひばり』を大音量で聴いていた。控えめに言って、凄まじい音楽である。いったい、どうしたらこんなに、自然界そのもののような、調和と瑞々しさとを、4本の弦楽器で、虚飾なく、公正に、ごく美しく生み出すことができるのだろう。ハイドンにはいつだって全面降伏である。とくに、こんな風に春の気のみちみちた午前には。なまぬるい気体(のようなもの)になってしまいたくなる。なりたければ、いつかなれるかもしれない。

なろう! なろう! 明日なろう! 明日はひばりになろう!

はあ。春はしょっちゅう溜め息が漏れます、ね。

『ムーンライト』を観た

レイトショーで『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス監督)を観てきた。

観賞後、感想を誰かに話したりせず、胸の内に静かに留めておきたいような類いの映画がまれにある。素敵な作品だし、少なからず心打たれたし、多くの人に観てほしいと思う。でも、それについて何も言いたくない気持ちは、少しずつ確かなものになっていく。やがて心に硬い錠が下りる。その映画のことを誰かと語らう機会は(おそらく)ない。

この作品がアカデミー賞を受賞したことの意義や、俳優や音楽の素晴らしさ、印象的なシーンなど、語ろうと思えば語れるだろう。でも、声高に誉めそやしたりできない。「絶対観たほうがいいよ」なんて絶対言えない。誰かに感想を訊かれても、「うん、よかったよね。」くらいしか言えそうもない。そういう映画だった。